nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

カリスマとは何か

バースデーを聴きまくって赤ワインを飲んでいる。

私の部屋には一体何本の空き瓶があるんだろう。

赤ワインはガソリンであり睡眠薬だから仕方ない。

北越谷で友達と飲んできた。

来月も北越谷で飲む予定があるので楽しみだ。

ヤバ、めっちゃ眠たいのだが、今日も煮えたぎる想いを綴る。

 

 

そろそろ「カリスマ」について考えて欲しい。

カリスマについては、生まれ持ったものが大きく影響しているような気がしてならない。

例えば、いい歳こいた人がカリスマになりたくてなれるもんではないということだ。

まず、第一に容姿が大事だ。

そして漲る自信と、求心力が必要だ。

沢山の本を読み、文章力を身に付けたとしても、上記の素質がなければカリスマにはなれない。

ただの読書家で終わるのだ。

ここに二人のカリスマを挙げる。

日本ではチバユウスケ、海外ではジムモリソンだ。

共通しているのはハイクオリティなセンスと抜群の容姿だ。

そして人々を巻き込む圧倒的なエネルギーを備えている。

私は中学生の頃、ジムモリソンに魅せられて以来、こうあるべきだと思って生きてきた。

脆さ、儚さも武器になる。

逞しさよりも圧倒的に大事なものは「神秘性」だ。

遥か昔、二十四歳の頃、私は自分の中に眠るカリスマ性に気づいた。

仰る通り、自分で決めるものではなく、人様が決めるもの。

しかし、カリスマとは己の自覚から生まれるものである。

人々を巻き込んでいる自覚、先頭に立っている責任感。

パフォーマーにならなければならない時もあれば、敢えて敗者になることも演出の一つ。

先日も書いたが、リハビリセンターでは敗者を演じている。

ところが、一歩外の世界に出れば、私は労働者のヒーローだ。

物書きとしてどうの、ではない。

チバユウスケよりも、ジムモリソンよりも歌唱力のあるボーカリストは五万といる。

しかし、カリスマ性のあるボーカリストはいないと言ってもいい。

カリスマとは、毎日がショータイム。

プライベートすらも作品なのである。

前にも述べたが、やはり自覚がそうさせるのだ。

自覚のないカリスマは、皆を背負う責任が持てない。

即ち、カリスマではないということになる。

 

 

もっと言うならば『橋岡蓮』というのは一つのブランドでもある。

その自覚があるからこそ、私は自己投資とブランディングに命を注いでいる。

私のことを知らない人は、恥ずかしいと思え。

時代の波に乗れていないことを恥じろ!

 

 

これだけは言っておく。

カリスマとは孤独だ。

その自覚も二十四歳の頃からできている。

なぜ私は孤独なのだろうかと考えた時、きっとカリスマ的存在だからだと言い聞かせてきた。

なんとなく世間に馴染めず浮いた存在だった。

しかし、そこら中の人の人気者だった私。

皆が私の背中を見ていたし、特別扱いされていた。

それと比例して、大多数の敵がいた。

ところが、その敵までも、私に注目していたのを見逃すわけない。

カリスマと孤独はイコールだが、カリスマである自覚さえあれば耐えられる孤独だ。

むしろ、堂々と誇れるものであり、責任感が芽生えて当然だ。

この流れで、私がメジャーになったら、一躍時の人になるのはわかりきっている。

ボロカスに叩かれようが、ファンが味方してくれる。

誰よりも弱さを抱えたカリスマは、人々の虜。

弱き人間の代表になってしまうのがカリスマ的人間。

まるで自分を見ているようなのだが、どこか違うと思わせる。

飛び抜けた存在であるカリスマは、誰ともつるむことがない。

熱狂的とも言える渦を巻き起こすことに特化すれば右に出る者はいない。

誰にでも優しいカリスマは、長い物には巻かれない。

どんなに苦しい状況に置かれても、自覚を捨てない。

中には自分を演出しすぎて、破滅型の人生を歩むことも。

別名、伝説と呼ぶ。

だからチバユウスケは生きる伝説なのだ。

私は残りの人生で伝説を作る。