熱量。
これだけは自信がある。
私は自分の中に煮えたぎるものを全て言語化してアウトプットしている。
それに才能や技術を織り交ぜたのが本という作品だ。
一時期、持っている全ての力をトライ&エラーのためにSNSで出し切っていたことがある。
すると、それを読んだ人は更に高いレベルを私に期待するわけだ。
まるで自分で自分の首を絞めているようだと思った。
私としてはもはやSNSの域を越えることには成功していると思う。
私のアカウントは定着を見せ、半端ではない熱量を放っている。
ここまでのエネルギーで以て投稿を書く人はあまりいないかも知れない。
毎日パソコンに向かうのが楽しみだ。
ただし、私の楽しみに付き合わせているのではない。
勿論、皆の楽しみに私が付き合っているのでもない。
一言で言うならば「会話」なのだ。
今日も朝日が昇った。
今日も蓮さんの記事はアップされた。
でき上がっているのは阿吽の呼吸。
お互いに安堵することができる瞬間である。
では何故私はこれだけの熱量を誇れるのか?
一体このエネルギーはどこから湧いてくるのか?
一言で言うと、文字以外の発散方法を知らないだけだ。
そういう人間こそ作家になるべきだと思うのは私だけだろうか?
書くこと以外にやることがなく、かつ、人に伝えるべきものがある人は作家になればいいと村上龍氏も言っていた。
書きもしないで作家になろうとしている人は、一体何がしたいのかと思ってしまう。
中には、文章を書くことがお上手だから作家になれると思っている人もいる。
そうじゃないだろ。
人に伝える独自のメッセージを持っているかいないかだ。
手段が書くということ以外には無いという人だ。
そういう意味では、私は条件的にはクリアしている。
自分では自分のことをこう思う。
私のようなタイプは、エネルギーの矛先がブレないようにした方がいい。
何故なら書くことに集中した方が、成長できるからだ。
アクセサリーのようにあれこれ手を出すと、一見カッコいいかも知れないが熱量は下がる。
だから、書くこと以外何もしない。
それが自分を貫くということでもある。
食べてはいけないので仕事はするが、本来なら筆一本で生きられればいいのになと思う。
とは云うものの、コンセプトを変えてまで「筆一本」にこだわるのは違う。
蓮ワールドと云うものは、普遍的でなければならない。
BGMとして常に昭和ロックを掲げていることにも意味がある。
失われたものを再生する目的がある。
姿形は衰えたけれども、魂は汚れない。
だからこそ、私はこれだけの熱量で書き続けられるのだ。
傍から見れば、この熱量は病的であり、いつか倒れるかと心配されたりするのだろう。
子供の頃から凄まじい集中力があった。
それは全てピアノに向けられていた。
ところがパソコンを手にした私は全エネルギーを書くことに注いだ。
それをちゃんとわかっていない人にとっては、私は何もできない人間に映るようだ。
確かに私にできることなど何もない。
ところが僭越ながら、書くことだけは一丁前にできるのだ。
とっくにレールの上を歩いている。
目には見えないレールを自分の道と信じて歩いてきた。
何故そんなことができたかと云うと、他にできることが何一つなかったからだ。
これだ!と思うしかなかった。
器用貧乏という言葉があるが、私はその逆である。
三十二歳頃から書き始めて、約十年。
これから十年の計画を立てなければならない。
キーワードは「集い」だ。
孤立している人の中には、私みたいなヤツがいる。
私がずっと孤独を感じていたように、理解者に恵まれず泣いている人がいる。
そんな人に私の文章は読んでもらいたい。
そしてこの世に生がある限り、書き続けたい。
たぶんそれを叶えるのは、そんなに難しいことではない。