nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

そんな私はクールな侍

今日も明日も考えることはただ一つ。

どうすればいい文章が書けるかということ。

音楽も読書も何もかも、いい文章を生み出すためだけに存在している。

息抜きもクソもない。

頭を使ってロックを聴く。

聴いていて心地よいから聴いているのではない。

感性を研ぎ澄ませるため、文章を書く上でのヒントを得るため。

だからどんなに素晴らしい楽曲でも私にとってプラスにならない音楽は聴かない。

逆に散々聴いて飽きていたとしても、私のアドレナリンを刺激するものは何度でもリピートする。

そうやって常に自分を戦闘モードに立たせるのである。

 

『COOLサムライ』

 

カーッ!!!

熱い!!!

まるで私のテーマソング。

モッズの曲なのだが、この曲を知ってから一体何度聴いていることやら。

 

『俺たちが忘れてたもの激しさと優しさ、見つけにくいこの時代に自分を生きるCOOLサムライ』

 

ヤバ、私のことじゃんね!

 

 

読み手は作者より厳しい存在であるということを忘れてはならない。

自分は大したことないのに、アイドルを吟味しているおっさんのようにね。

作者っていうものは、書き手の立場からうんちくを語りたがる。

しかし、あくまでも読むのは読み手。

はっきり言って、書き手のうんちくなんて知ったこっちゃない。

面白いか面白くないかだ。

読みやすいか読みにくいか。

自分のことを多才な知識人だと思っている人に限って、芸樹的な小難しい文章を書く。

厳しい読み手は、きっと最後まで読まないだろう。

それなのに誰にも読んでもらえない文章を書いたことで満足しているなんて本末転倒じゃないか?

自分が書いた文章は読み手によって読まれる読み手のものであるということを忘れてはならない。

私にとって文章を書くということは、読み手とのコミュニケーションである。

だから、お互いが腑に落ちてテンション上がるものを心がける。

いい文章が書けた時は、少なくとも半日はハッピーである。

しかし、残り半日は、また新たな文章を書くための苦悩に変わる。

 

 

本を読む時、音楽を聴く時、そのアーティストの苦悩などどうでもいいわけだ。

三島由紀夫の小説を実に気分良く読んだ後、あとがきを読んだ。

私はそれを読んだことをとても後悔した。

三島由紀夫の作品に共感するだけで、彼の生い立ちや苦悩や美学はどうでも良かったからだ。

だから『仮面の告白』は避けているのかも知れない。

そうか、私の文章に共感してくれている方にとっては、私の制作秘話や苦悩はどうでもいいことなのだと肝に銘じようと思った。

ただ、私は日々の投稿では小説は書かない。

作品はあくまでも作品であり、投稿はどこまで行っても投稿だ。

この場で百%の力を出し切ることはしない。

かといって、投稿は投稿で全力で書いている。

 

 

要は自己満足で終わってはならないが、自分で納得しなければ読み手にも伝わらないという難しい世界だということだ。

毎日書いていても、答えなど出ない。

大切なことは、私にとっては私にしか書けない世界を描くことにある。

私が書いているのは『蓮ワールド』であり、先五百文字のショータイムであって、文学ではない。

どういうことかというと、誰にも真似できないし、似てもいない。

私しか奏でることができない唯一無二の空間が『蓮ワールド』だ。

どこにも属さないし誰にも媚びない所謂『狼』だからこそ表現できることがある。

敢えて私は自分を孤独へ追いやるところがある。

何故なら、そうじゃないと『蓮ワールド』というものは守りきれないからだ。

誰のものでもない私のものは皆のもの、そういうことだ。

唯一無二のエイトビートは誰にも渡さない。

皆にとってそれぞれのテーマソングがあるように。

崖から転がり落ちるような勢いで文章を書く。

スマートフォンやパソコンの前で凍りつく人々を想像しながら。

もしくは、ニタニタする人もいるかも知れない。

それがコミュニケーション。

 

そんな私は『COOLサムライ』!