nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

未来をいきるとは

二日酔いだった。

結局、展示会のため北千住へ行った私は、案の定整骨院の予約をキャンセルして夜遅くまで写真家さんと飲んでいた。

二日酔いのまま整骨院へ行き、マッサージを施術してもらって帰ってきたところだ。

しばらく酒は要らないかも知れない。

寝て起きたらそう書いたことも忘れているのだろうが。

二日酔いの原因は、日本酒、レモンサワー、芋焼酎というとんでもない組み合わせのせい。

どうしてもっと考えて飲まなかったのか。

しかし、痛い目に遭った方が自粛する気になるだろう。

結果的に反省しているのだから、これでよし。

もう二度とチャンポンはしないと、何度誓ったことやら。

それにしても、写真家さんにお会いするのはかなり久し振りで、とても楽しかった。

毎朝私の投稿を読んでくれているとのことで、それを聞いて嬉しかった。

 

 

人生は『今』が全て。

それなのに、どうしても『未来』を生きようとしてしまう。

夢を抱きながら今を生きるのがベストなのだが、そう器用でもない。

私はまず目標やビジョンを立てる。

それに向かって、逆算しながらコツコツと歩くタイプ。

不器用な生き方とは全く思っていないが、そうすることしかできない。

目標やビジョンは明確になればなるほど達成しやすい。

ボンヤリと描くのではなく、決定してしまう。

私の新作の発売日のようにね。

決定事項だから何が何でも達成しなければならない。

読者のお手元に渡り、涙しながら読んでくれる姿まで想像する。

想像できることは達成可能。

逆に、想像できないことは達成できないのかも知れない。

過去作品などを読んでいると、独身時代から『夫婦』というものに憧れていて、鮮明にその形を想像していたことがわかる。

あぁ、叶ったんだなと思う。

しかし、ある時から一人に戻るイメージを膨らませていたことになる。

そして、それが叶って今こうしている。

なぜだろう。

叶ってしまうことが不思議なのではなく、想像できることが不思議なのである。

妄想とも違う、願望とも違う、未来からの語りかけのような力だ。

 

 

こうして私は未来を歩いている。

時が止まってしまえばいいのにと思うほどの幸福は一度や二度しかなかったかも知れない。

『今』にしがみつく時、別れたくないとか誰にも渡したくないとか、独占しようとしているため、辛いことが多いように思う。

それもまた『今』を生きていない証拠でもある。

これから起こる未来の出来事について心配しすぎているのだろう。

先を憂うことなく、『今』を満喫すればいいのに。

まるで旅行が始まってもいないのに、終わりを意識するかのようだ。

私は『今』を生きることが極めて下手なのだろうな。

この瞬間が止まってしまえばどんなに幸せだろうかと思えるような出来事がこの先起こればいいのに。

そんな時、私はこの文章を思い出すだろう。

そして、精一杯『今』を生きようとすることだろう。

 

 

とはいうものの、『今』というのは、人生で一番若い日だそうだ。

そう言われればそうだよな、なんて思ったりした。

刻一刻と、死に向かって生きているわけだ。

そう考えると、この瞬間は極めて貴重だよなと思うこともできる。

勿論過去は変えられないし、未来のことはわからない。

しかし、過去は捉え方一つで変わるものだし、未来というのは延長線上にあるものだ。

変えられないのは過去ではなく『事実』だ。

事実は変えられなくても過去はどうにでも変わるものだと思う。

未来というものは、ある程度は決められているのではないだろうか。

私達には見えないけれども、出会う人も決められているような気がしてならない。

調子の良し悪しに関係なく、必然的なものってきっとある。

目を凝らして、それを見極めなきゃならないだけの話だろう。