珍しくアパートの隣りの部屋の住人の声がした。
子供の叫び声である。
あぁ、よほど私の部屋は静かなんだと思った。
同時に、日頃我が家から鳴り響くロックはこのように聞こえているかも知れないなと思い、少しばかりボリュームを下げなくちゃと思った。
先日、新作の制作中に過去の投稿を読んでいた。
するとこんなことが書いてあった。
『私の深層心理の中には「必要とされたい」というものがある。
誤解されているかも知れないので、ここでキッパリと言ってしまうおう。
私が欲しいものは自由でも金でもない。
俺は蓮さんじゃなきゃダメだという人を求めている。
他の人ではなく、蓮さんじゃなきゃダメなんだという人をずっと探しているのだ。
これといって特技も取り柄も無い私だが、蓮さんと一緒に居ると自信が付く、心が安らぐ、そう思って欲しい。
そういう私は、誰よりも理解者を求めていたはず。
私は活動を始めてから、ファンになってくれる人と一緒に過ごしたいと思っていた。
ファンというのは、私が書く文章を褒めてくれるとか、そういうことではない。
私の作品に惚れ込んでいるとかでもない。
私が作る作品を温かく見守ってくれる人のことだ』
これを読んで、一切ブレていないことがわかった。
『蓮さんじゃなきゃダメな人』を求める旅は、ずっと昔から続いている。
養ってくれて、好きに執筆活動をさせてくれる人だと思われがちだがそうではない。
好きにすればと無関心になることと、温かく見守ってくれるのでは雲泥の差がある。
私が求めているのは後者なのに、誤解されやすい。
お互いにお互いがいないと生きていけなくなるのはとても怖いこと。
しかし、お互いが精神的に自立していて必要性を感じないのであれば別々になっても大した問題じゃないように感じる。
私はいい意味で依存しあっている二人に美学を感じるタイプ。
今までは一人で生きて行けると思っていたが、いざ一緒になってみるとバラバラに生きて行くなんて考えられないというのがベスト。
私だって人間は一人では生きられないという体験をもっとしてもいいはずだ。
二十代の頃はそういう経験をしたこともある。
あの頃経済的にも自立できていれば、人生は大きく変わったかも知れない。
なぜなら、溢れんばかりの自立心が保たれたからだ。
精神的にも経済的にも相手を頼っていたため、そんな自分が許せなくなってしまったのだ。
かといって、その人のことを愛する自分は肯定していた。
ただ、所謂『母親』になる道は選べなかったという話だ。
そんな私は一人で生きて行くしか道はないと思い込んでいた。
もしかしたら、相手は『蓮さんじゃなきゃダメな人』だったかも知れないのにね。
結論としては、あくまでも私の場合だが、社会的には自立していた方がいいのかも知れない。
自他共に一人の社会人として認められるようになった上で、一緒にいられる人がいるのがベスト。
ただ楽したいわけではないし、自由が欲しいわけではない。
やはり自立心を満たしてもらった上で、この人しかいないと強く思うことが私にとっては重要だ。
もっとわかりやすく言うと、こういうことだ。
自立した者同士が、互いに惹かれ合って依存する。
それをここでは『美学』と言っている。
あくまでも私にとっての美学であり、理想を述べている。
おんぶに抱っこでは私の自立心は満たされない。
私が養ってやる筋合いもない。
ロック魂でロックに生きるとはなかなか難しいのだよ。
やっぱり自分で稼ぎ、ある程度の自由を得つつ、相手にある程度の自由をくれてやるくらいでないとね。
『俺のお陰で今がある』みたいなことは死んでも言わせたくない。
そんなことを抜かす無神経なヤツだけはゴメンだぜ。