私の中で唯一自己肯定できることがあった。
それはこういうことだ。
「蓮さんには蓮さんのままでいて欲しい」
私という人間を知る者が投げかけてくれた言葉。
普遍的な存在でいたいと願う私からすると、この上なく嬉しい言葉だった。
「世の中が変わろうが、結婚しようが、世の中が滅びようが、蓮さんには変わらないでいて欲しい」
その意味は私にはわかる。
私が私のままでいることで、お互いに安心できるからだろう。
世の中捨てたもんじゃない、そう思うことができるから。
中には、蓮さんは変わることができる、という人もいる。
そうか、私には変われる要素があるのか!
最初はそう思った。
ただ、ちょっと待てよ?
変わる?
私って変わらなくちゃならないの?
そう思った瞬間、唯一の自己肯定がガタガタと崩れ落ちた。
前が見えなくなってしまった。
私ってどうしたいのだろうか?
変わりたいの?
変わりたくないの?
この世が滅びても、私が私のままでいることは普遍的価値だと考えていた。
今までもずっとそうだった。
自分の中にある普遍的なものを守り抜くために多くを犠牲にしてきた。
普遍的なものとは何か。
汚れなき心、ピュアな精神、優しさ、そして愚直さだろうか。
大切なものはロック魂。
頑なに自分を守ろうとするところも、普遍的かも知れない。
その頑固さが、私を支えてきたと言っても過言ではない。
もし私が自分の中にある普遍的価値を手放していたら、これを読んでくれる人はもういなかったと思うのは大袈裟ではないだろう。
私は私のままで人生を激変したいと願うのは、無謀だろうか?
できることならこのままの私で人生をガラッと変えてみせたい。
求めているのは最強の一体感。
それを感じることができれば、それだけで人生は変わったということができると思う。
なかなかドライになることができないのは、未だに人間を信じ、世の中を信じているから。
きっとどこかに私にとってぴったりの相手がいるのだと信じてやまない。
そしてこの世は想像以上に美しく、私が私のままでいれば、輝く未来に遭遇できるのだと思えるから。
私が変わって世の中に合わせていくなんて考えられない。
向こうから自分に引き寄せなくちゃ。
だから、自分を理解できるのは自分だけ、なんて思えない。
私の言葉に耳を傾け、私を理解してくれる人は必ずいる。
そんな人に出会うことが私の人生を賭けた冒険なのだ。
その出会いのために文章を書いていると言っても過言ではない。
そう、私は信頼の塊。
隣人を愛するだけでは留まらない、世の中は美しいのだと信じている。
だからこそ、自分の胸の内を人前に晒すことができる。
読んでくれる人のことを信頼しているから。
しかし、こうやって生きていると、ズルい生き方ができない。
こちらには事実を伏せて、こちらではちゃっかりことを進めるというようなことが通用しない。
なぜなら、私に関わるすべての人が私の投稿を読んでいるから。
私も馬鹿正直なので、隠していても文章に出てしまう。
周囲からもっと賢く生きなさい!と言われても、上手く立ち回ることができない。
私を愛する人は、そんな私の愚かさも愛さなければならない。
危険と隣合わせで生きて行くことは慣れっこだけど、もうそういう生き方はしなくていいのかも知れない。
今考えているのは、私が先頭切って幸せになってしまうのもアリ。
やはり堂々と生きるということは清々しいこと。
こんなことを考えて、旅に出るまでの日々をやり過ごしたい。
泣いても笑っても春はやってくる。
さてさて、私は一体どうなるのだろうか。
ただ、アップダウンは辛いね。
心は穏やかでありたい、ただそれだけ。