一人になりたくて焼肉屋へ寄ったのに、若者だらけの店に入ってしまった。
落ち着かないのは気のせいか?
会社の人も若いし、なんだか自分がかなり歳を取った気分になる。
学習した。
こういう時は北千住へ行くべきだったとね。
私は池袋では少々歳を取りすぎているのかも知れない。
安い店に行くからそう思うのかな。
雨はずっと降っていた。
しばらく雨が続くようだ。
仕事中ずっと、信頼と信用について考えていた。
最近、何かあるといつもこうだ。
信頼を得ることは簡単なのに、信用を得ることは難しい。
とてつもなく信頼されていても、信用には至らないと思うことが多々ある。
ところが、何の根拠もなく、私のことを何も知らないくせに私を信頼信用している人もいる。
そういう人は、私のことを疑うという概念がない。
言ってみれば、私が何日も連絡しなくても、心配はするが私を疑うことがない。
この絶対的信頼信用に、かえってこちらが戸惑うくらいだ。
恐らく自分には自信がないはずだ。
それなのに疑いの概念を持たないのはなぜだろう。
私ならすぐに疑うはずだ。
いや、そうでもないかも。
え?
まさかのまさか、信頼関係ってこういうことか?
そうだとしたら、私は一体どれだけの人と信頼関係を結んでいるのだろうか?
でもさ、信用とはまた話が別なのだろうか?
あ〜、嫌だね。
信頼はしているけど、信用してくれない人って何考えているのかわからないね。
そう考えると、信用してくれる人を大事にした方がいいのかもって話にもなる。
まぁ、親でさえ私のことを信用してくれないのだから、他人が易々信用してくれるわけもないか。
だが、私は会社では、それなりの信用を得ていると思う。
私に期待して給料を払うということはそういうことだ。
個人としての信用は、やはり新人賞でも取って、社会的に認められないと得られないものなのだろうか?
私としてはそんなものなしに信用されたいものなのだが。
私は何を基準に人を信用するのだろうかと考えたが、わからない。
強いて言えば、私への想いと、私への信用度かも知れない。
例えば、私の周りには職人さんが何人かいる。
何かあれば彼ら彼女らに何の疑いもなく頼むことだろう。
それが信用ってやつじゃね?
仕事ぶりを見たわけでもない、でも、私の頼みならばっちり決めてくれるだろうと信用しているわけだ。
ところが、私のことは大好きだけど、私には頼まないという人がいたとする。
それは私を信用していないのと同じではないだろうか。
つまり、そういうことが言いたいのだ。
そんな人達は、自分や仲間の『信用』について考えたことはあるのだろうか。
中には私の信用を裏切るような人もいる。
たとえ裏切られたとしても、私は他の仲間のことは信用する。
私の信用する気持ちなんて、理解されなくて当たり前かも知れないが。
また、私が信用できない人と付き合いをしている人はどうだ?
きっと彼は私を信用していないから、そいつと付き合いしているのだろう。
こんなことを考えながら一日を過ごしたら、必要以上に疲れてしまった。
だから一人になりたかったのである。
いつも一人だが、誰にも会わず、静かに過ごしたかった。
それなのに安さを求めてやかましい店に入ってしまったって話。
さっさと大人しく帰ってくれば良かった。
帰宅したら玄関の前で部屋の鍵を探して十五分経った。
結局いつもの鞄のポケットに入っていた。
これってあるある話。
雨だからこんなに疲れることを考えていたのだろうか。
たぶん四月からの仕事が決まって、もう気持ちはそっちにあるのだろう。
ドコモの始まりは、あらゆることの終わりを示しているのかも知れない。