nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

オブラートに包んだけど

時間薬というものは本当にあるようだ。

それに加えて、案外立ち直りも早い。

あんなに落ちていたのに、数日経つと半ばどうでも良くなってきた。

いい歳こいて自立したコミュニケーションを取れないと、今回みたいに自他共に傷付けてしまうのだ。

決して書きたくて書いているわけではないけれど、怒りと悲しみと悔しさを抑えきれなくなっていた。

よくわかりもしない他人から、デリケートな悩みについてずけずけと言われると、腹が立って仕方がないのである。

朝から晩まで全てのことにイライラしていたが、どうやら落ち着いたようだ。

ここまで来たらこっちのもの。

やがて、平穏さを取り戻すことだろう。

その節は、心配させてしまい、申し訳なかった。

反省はしているけれども、ここしかぶつけるところがないのである。

それは皆への甘えであるとはわかっている。

だけど、ここは私の部屋であり、どんなに訪問者が減ろうとも、抑えきれなかったことだけが事実。

それで嫌われたらそれまでだ。

 

 

何だか無性に自然に触れたくなった。

毎日見てるから半端なネオンはもういいよ。

雄大な自然に触れ、健気な花を見て、生きるということについて考え直したいものである。

私も花のように健気に生きなきゃなぁ〜などと思うかも知れない。

富士山と太平洋が見たいよ!

いや、穏やかな日本海でもいい!

健気と言えば高山植物か?!

でもそれが何のためなのかは私にはわからない。

生きるためだと言われたら、何のために人は生きるのか?と問うだろう。

何しに生まれてきたのかわからないが、全ての『生』には意味などないのかも知れない。

 

 

私は今回ここで八つ当たりしまくったことで、所謂一つの『友情』みたいなものを見つけてしまった。

あ、私が暴れちぎっても、変わらない人もいるってね。

彼ら彼女らは冷静な眼差しで心を痛めていたはずだ。

蓮さんったら、全く…、ってね。

そんな友情を再認識した瞬間から、気持ちは安定に向かった。

安心したってことだろう。

同時に果てしない自由を感じることができた。

私は『蓮さんはこうあるべき』などといったエゴに振り回されることなく、怒りも悲しみも悔しさも自由に表現していいのだと思った。

私が何を書いても泣いても怒鳴っても、ただ心は側にいてくれるのだということを知った。

そんな友にはただありがとうと言いたい。

 

 

考えてみれば、私は人に対してアドバイスすることはほとんどない。

あるとすれば覚えたての営業トークを隣の席の人に自慢することくらいだ。

ただ、お節介にはならぬようこう付け加えることにしている。

 

「あくまでも私の場合はこう言うようにしているだけ」

 

お節介を言う人や、自分軸でしか考えられない人って云うのは、自分がこの世の正義だと勘違いしている。

だから他人が自分の想い通りにならないとイライラするのだ。

そりゃ私だって他人の言動に腹を立ててイライラしまくっている。

しかし、そのイライラとはまた種類が違う。

あくまでも私の場合だが、私の言うことを聞け、とは思わないわけだ。

心の中で、どうか消えてくれって思ったりするだけだ。

ゴキブリは生命力も実力もあって私の前からなかなか消えないが、私が見限った人って云うのは消える仕組みになっている。

と云うより、どちらからともなく遠ざかってしまうのだ。

それが何より互いのためでもあり、また、この世のためでもある。

憎しみ合って一緒にいる必要性はどこにもない。

たぶん、私が最も苦手なことは、仕切られることかも知れない。

そしてそういう人は知らず知らずのうちに主導権を握ろうとし、蓮さんを変えたいなどと思い始めるのだ。

そのようなことは私は受け付けていないだけの話。

かなりオブラートに包んだけど、伝わったかな?