大雨の中無事帰宅して即行でパソコンを立ち上げたところである。
仕事が早く終わった代わりに社長から宿題を渡されていた。
それを片付ける前に、これを書くことにした。
どうやらしばらく雨は止まないようだ。
仕事にどんな影響が出るだろうと考えている時点で、もはや仕事人間である。
すっかり酒も飲まなくなった。
当然角ハイボール一杯では酔わないのだが、次の日のコンディションのことを考えると飲めなくなってしまった。
ブレーキが掛かるのである。
たまには翌日のことを忘れて羽目を外したいとも思うのだが、池袋から谷塚まで約一時間の距離を思うと、やはりブレーキが掛かる。
夜更かしも当然しない。
どんなに遅くても日付が変わる前には床に就き、翌朝早朝に目覚ましをセットする。
何がなんでも仕事中眠たくならないように、食事もセーブしている。
そこまでしないと気が済まないようになった。
かといって、これを書くことだってサボったりしない。
手抜きだと思われる日があるかも知れないが、実はそうでもない。
ただネタが浮かばない日もあるのだと思ってくれ。
文字での表現は時に凶器になることもあれば、癒しとなることもある。
私としては大して深く考えずに書いていることが誰かにとっては耳が痛い話もあったりする。
それは致し方ないことかも知れないが、基本的に私は共感してくれると思って書いていることが多い。
とはいえ、全ての人に共感してもらおうと思ったら、薄っぺらい内容になる。
無難な話は誰にでも分かり易く、将又、共感も得られるのだ。
私は毎度毎度、喜怒哀楽をただぶつけているように見えるかも知れないが、問いを投げ掛けていることが多い。
それで嫌われたら、ぶっちゃけショックはデカい。
でも、仕方のないことである。
自己満足では終わらないようにとは心掛けているつもりだが、そうなっている時もあるだろう。
ただ根底にあるのは、皆とのコミュニケーションである。
投げたら返ってくるような、そんな遣り取りを求めて日々書いている。
たまに幼少時代や若かりし頃の話を出すのは、具体例があった方が解り易いからだ。
ガキの頃の自分を理解して欲しいというわけではない。
幸せとは曖昧で、実にわかり辛い。
しかし喜びとは実にリアリティがある。
私にとっての喜びとは、過去の経験が現在に繋がっていると思える瞬間のことである。
二十代前半の若かりし頃、私は魚屋で店頭販売をしていた。
声が枯れるまで、接客をし続けた。
店のアイドルだった私は、馬鹿みたいに売った。
売れ残りは従業員が買って帰るというブラック企業だったために、死に物狂いで全部売った。
その経験が今のコールセンターでの仕事に反映されているとわかった時、私は言葉にならない喜びを感じた。
あの頃の経験は決して無駄ではなかったのだと心から思えた。
何故なら、扱っている案件が変わって、今は海産物を販売しているからだ。
堅苦しい商材を扱っていた頃は、語気の強さはマイナスだった。
それが今となっては説得力に変わり、強みとなった。
また、私のだみ声もいい塩梅で如何にも魚屋なのだ。
もし、こうして日々書いていることが、何かしらのプラスになることがあるとしたら、それは私にとって喜びとなるだろう。
幸せという言葉では語り尽くせないのが喜びである。
納得行く人生を歩みたいのなら、喜びへの遭遇は欠かせないものになるだろう。
大袈裟だが、仕事さえ上手く行くのなら、他を犠牲にしても納得できる。
今となっては、働いて文章書くことができれば、マジで多くは望まない。
たとえ、毎日一人で酒を飲む生活だったとしても。
ここでこうしてコミュニケーションさえ取れれば、私の人間に対する欲望は満たされるような気がしている。