nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

孤立感との闘い

自宅にFAXが無いので近所のスーパーまで行く。

業者との契約書の遣り取りでよくFAXを使うのでそれ専用の電話機に変えたいのだが、私の固定電話は未だに黒電話である。

勿論ナンバーディスプレイも付いていない。

誰からかかってきたのか受話器を耳に当てるまでわからないのだ。

仕方がないからかかってきた電話にはマメに出るようにしている。

しかし殆どが勧誘の電話だ。

一応自宅の電話は事務所の電話番号として登録してあるものの、大事な遣り取りは全て携帯電話にかかってくる。

いつ、誰から着信があるかわからないので、割と肌身離さず携帯電話は持ち歩いている。

午前九時から夕方十七時までは確実に出られる態勢でいる。

つまり私は完全に携帯電話に縛られていると言ってもいい。

携帯電話の無い生活は私には考えられないのである。

そのくせ、メールなどはよく見落としてしまい返信が遅れたりする。

SNSの着信音が鳴らない時もあって、後になってから返信することもある。

 

以前栃木県にある出流キャンプ場へ行った時の話だ。

単刀直入に言えば、そこには電波が無かったのだ。

久々に携帯電話から離れた一日を過ごすことになったが、正直に話すと孤立感が半端なかった。

もはや私は電波の無いところでは生きてはいけないということを悟った。

そう云う時に限って、着信が沢山来ているものだ。

とにかく私は電波を求めてキャンプ場の受付け付近まで歩いて行って、素早く返信を済ませたりしていた。

自分でその姿を顧みて、滑稽に想えたほどだ。

一日くらい電波の無い生活を楽しめばいいのに、そういうわけには行かなかった。

非現実を楽しむどころか、私の心は完全に携帯電話に囚われていた。

携帯電話の中に私の存在があると言っても過言ではない。

哀しいけれどそれが現実なのだと思った。

きっと何処へ行っても生きてはいける。

しかし、電波の無いところで生活することは不可能なんだと思った。

つまり、私は本当は孤立して生きているのに、傍に携帯電話があることによってその現実は誤魔化されているということだ。

私みたいにSNSに浸かり、遠くにいる誰かからの電話やメールを待っているような人は案外沢山いるのではないだろうか。

この世から、何らかの理由によって電波が失われ、インターネット社会が崩壊したら自己の孤立は浮き彫りになる。

毎日賑やかに鳴り響く携帯電話が無くなれば、本来の自分の姿を叩きつけられる。

私の場合、電波が無くなれば仕事さえ失うことになる。

なんという恐ろしいことだろう。

とある人は携帯電話を自宅に忘れて会社へ行っても平気な顔をしていた。

彼はSNSをやっていないだけではなく、LINE友達も私しかいない。

謂わば彼も孤独なはずである。

それなのに平気でいられるのだ。

ということは、私の方が圧倒的に弱いのかも知れない。

私なんて人間は、SNSで友達の生存確認をしている節もある。

ツイッターやブログがアップされれば、あ、元気にやっているのだなと安心したりするのだ。

電話やメールが来れば、私は一人じゃないと安堵を覚えたりして救われているのである。

気持ちが常に外を向いているので、同じ屋根の下で暮らしている者よりも外部の人間のことが気になる。

もはや、インターネット社会の奴隷である。

SNSに浸かり、なんとなく大勢の方から気に掛けてもらっているような錯覚に陥っているが、それら全てを遮断してしまった時、私は何を励みに生きて行くのだろうか。

私のことだから、本を読み、自分を見失わないように労働者として働くだろう。

しかし恐ろしいまでの孤独感と孤立感を抱えて生きて行くことになる。

必死になって友達に手紙を書いたりするかも知れない。

そして試されるのである。

人間としての価値、社会人としての需要、つまり生き残れるのかどうか淘汰されることになる。

私と同じような人間はこの世の中にウヨウヨしているに違いない。

 

破壊から再生へ

破壊から再生へ

  • 作者:橋岡 蓮
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