nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

ファン心理と云うもの

やはりビジョンがあるならそれを口にすることが大切だ。

明確なビジョンを描き、誰にでもいいから話をすること。

話相手がいない場合は、私のようにこうして「書く」ことでもいいと思う。

とにかくアウトプットすること。

そうすることで、不思議と運を手繰り寄せることができる。

一つ実感することは、一気には高いところへ飛べないということ。

一歩一歩しか前には進まない。

しかし歩き続けていれば後ろを振り返った時、違う景色になっている。

今まで見たことのない別世界に自分がいることを想像してみると、ゾクゾクする。

だから私は歩みを止めないし、未だ見ぬ世界についての妄想に耽る。

私の理想はこの世にいる一割に満たない奇特な考えの持ち主に支持してもらうことかも知れない。

恐らく私が書くものは万人受けしない。

一割の支持者だけでも十分需要があると思っていいのではないだろうか。

最近そんなことを考えている。

これも一つのアウトプットだ。

 

先日とある方のブログでブルーハーツの『リンダリンダ』を久し振りに聴いた。

今となってはもう古い曲だが、何故あんなに売れたのだろうかと考えた。

決して一般受けするようなミュージシャンではないのに、やたらと売れた。

カラオケに行けばどいつもこいつもこの曲を歌っているような時代に私は育った。

実は私は天邪鬼で、あまりにも流行り過ぎると冷めてしまう傾向にある。

そのくせB'zの世代で、誰よりも熱心に彼等の曲を聴いていたのだから矛盾している。

確かにB'zは売れたんだけどカラオケでまともに歌える人は少ないのかも知れない。

稲葉さんの声が高音だからだろうか。

ミリオンセラーを飛ばしても、「流行る」というわけではなかったように思う。

中にはライブで定番になっている曲もあるが、私はライブでは演奏しないマイナーな曲の歌詞カードを見ながら、家でひっそりと聴くタイプだ。

だから好きなミュージシャンのコンサートと云うものに殆ど行っていない。

勘違い野郎なので、ファンが大勢いるとわかっていながら、自分だけのものとして聴きたいのである。

ストリートスライダーズのハリーのことが大好きで、自宅でCDを聴いている内は良かった。

しかしライブハウスへ行った後、とてつもなく虚しくなったのを今でも忘れない。

ぎゅうぎゅう詰めのライブハウスの全員がハリーのファンで、私はその中の一部でしかないという虚しさだ。

こんな想いをするくらいなら家に一人でYOUTUBEを観ている方がよっぽどハリーを身近に感じられた。

それから、言うまでもなくライブというものへ行くのを止めた。

巧く説明しきれてないような気もするが、これも一つのファン心理なのではないだろうか。

つまり自分だけのものではないという現実を突きつけられたのである。

それを受け止めるのに相当な時間を要した。

若き頃の私は、相当思い込みが激しかったようだ。

よく言えば「一途」、悪く言えばやはり「勘違い野郎」となる。

私の例は極端だが、応援しているアーティストが売れるように願っていても、自分の手の平をすり抜けて大勢のものになってしまう寂しさを感じる人はいないだろうか。

B'zのコンサートはDVDで十分だ。

私よりももっともっと熱狂的なファンに囲まれるなんて考えただけでゾッとする。

アーティストって云うものは、作家も含めて自身の心に寄り添ってくれるものだ。

ファン同士で仲良くなりたいとか、交流を持ちたいとか、考えたこともない。

だからこそ、話は戻るが『リンダリンダ』が売れてしまったのはなんとなく寂しかったのだ。

どいつもこいつもが歌う歌ではなくて、少数派の人に愛されるべき曲のような気がしてならないからだ。

つまり、私は一割の少数派の支持を得たいと考えるのはそういうことなんだと思う。

これを自意識過剰と云うのだろうか。

誰かにとって特別な存在でありたい。

そう考える人はきっと私だけではないだろう。

 

破壊から再生へ

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  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
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