三人称で書いたものは人気が無いので、いつか短編小説集を出す時のために取っておくことにする。
とある人から「三人称で書いてみては?」と言われた時、この人は私の過去作である短編集を読んでいないのだろうと思った。
あれは殆どが三人称で書かれたもので、「私」は登場しない。
その短篇集は私の校正の甘さから誤字が幾つか見つかったので、発売を中止してあるが、なかなか面白い作品集だ。
しかし、この面白さはわかる人にしかわからないようだ。
私としては傷ついた少女の希望を書いたつもりだった。
しかし、その肝心な希望の部分がどうもごく一部の読者にしか伝わっていないような気がしてならない。
そういう意味では漠然と失敗だったのかなとも思っている。
その点『破壊から再生へ』は実にわかり易いと思う。
孤独に苦しむ一人の女の希望がアリアリとわかる。
読者に勇気を与えることもできる。
ところがとある人はこう言った。
「貴女はあの作品を超えるものは書けないだろう」
何を根拠にそう言っているのかわからないが、処女作を超えられないだなんてそんなに悔しいことはない。
やたら、カチンと来たのを忘れない。
だから私は練習のつもりで毎日ブログを書いている。
もっともっと面白い作品を書いてやる。
村上龍のエッセイ集に書いてあったけど、一つの作品を本にするのは何年もかかる。
私だって書き始めてから本として全国流通させるまで十年かかった。
だから何だって云うんだ?
一生を懸けてたった一冊の小説を書く人もいる。
それくらい回りくどい作業なんだよ。
かと思えば、年間に何冊も本を出す人もいる。
私としてはどちらが優れているとは言えないと思っている。
本を出すって云うのはそれなりに資金もかかる。
無収入の状態で書き続けるには、工夫も必要だ。
それでも書き続けるということは、希望があるからだと思う。
賞を取って有名作家になるとか、そう云うことではない。
自分が書いた作品が世に残るという喜び。
書かずして一生を終えたくないという意思。
私の場合はどうしても伝えたいことがあるが、書く以外に手段が思い付かない。
それらが融合して、私は書き続けるという道を選択せざるを得なくなった。
愚かだと笑われようが、一向に構わない。
才能のある人ほど、他人のことを笑ったりしない。
他人を蔑むのは能力の無い人のやることだ。
能力のある人は特別な仕事を抱えているか、作業に打ち込んでいて、他人に干渉している暇などないはずだ。
好きなミュージシャンの曲を何回もリピートして聴くのとは全然違う。
それは自分に栄養分を取り込んでいるのと同じだ。
話が逸れてしまったが、私は「希望」を書きたい。
傷付いた人間がポジティブに生き抜く様を描きたいのだ。
つまり、私が伝えたいことはポジティブさだ。
ポジティブに生きると云うことは、それなりに頭を使うことだ。
人間は弱ってしまうと、ついついネガティブに陥ってしまうものなのだ。
そうなった時、ただ単純にポジティブになれ!と言ったってなれるものではない。
ある意味思考の転換が必要だ。
私にできることは実体験を元に、「こういう生き方、考え方もあるよ!」ということを示すことしかない。
誰かがそれを指し示す必要はあると思っている。
私は出版業界に詳しいわけではない。
世の中の情勢にだって疎い方だ。
ただ、私が経験してきた「情報」を必要としている人がいるはずだという根拠のない確信みたいなものを持っている。
ただそれだけだ。
決してトンチンカンな使命感に駆られているわけではない。
今の世の中で希望を見出すのは難しいと思っている。
だけど私はこの世に希望はあると思っている。
寧ろ、淘汰されて行くだろう。
生き残れるか否か、サバイバルの始まりだ。
人生は楽しむためにあると、私は考えている。