あまりにも天気が良かったので、コンビニまで歩いた。
あれ?
十℃を下回っているはずなのに、ポカポカしていたのは私だけだろうか。
風もなく、実に散歩日和だった。
このまま遠くのスーパーまで歩いて行きたいくらいの陽気。
ローソンからはケーキをぶら下げたおじさんが出てきた。
これから自宅で子供達とパーティーなんだろう。
駐車場は車でごった返し、レジの横に並んでいたフライドチキンは飛ぶように売れていた。
皆がクリスマスなのだ。
気づいたら私までもがローストチキンと缶酎ハイを買っていた。
一人分のそれをレジへ持って行くのはスリルのあることだったが、堂々と箸を一膳袋に入れた。
私だって何だかんだ言ってクリスマスを味わいたかったんじゃないか。
本当はちょっぴり寂しかったくせに、強がっていた自分を恥じた。
最初から素直に寂しいと言っていれば誰か誘ってくれたかも知れないのに。
女の孤独は男の孤独よりも深刻だ。
女は自分が女で在りたいがために孤独を生み出すこともある。
はたまた、女は自分が女ではないことを認識するのが怖くて孤独に逃げる場合もある。
男の孤独は物理的なものであるのに対し、女の孤独ははるかに生々しく残酷なのだ。
来年の今頃はきっと運命的な出会いの末に、ワイン片手にローストチキンやオードブルを囲んでいることだろう。
もしくは光り輝くネオンの中を手を繋いで歩いているかも知れない。
最近年齢の自覚はあるが、もう諦めようという概念が薄い。
あまりにも年上だと、とても離れた気持ちになる。
かといって遥か年下だと、申し訳ない気持ちになってしまう。
どっちに転んでも、なんとなく落ち着かない。
とはいえ、同級生はかなり上の存在に感じてしまったりする。
中身は物足りなかったとしてもね。
そうすると年下に目が行くのだが、そんな自分を顧みて「何様」なんだろうと思ってしまう。
何故なら、子供を産むことはないからだ。
よっぽど相手が、それでもいいから蓮さんがいいと言わない限り成立しない。
ただ、ローソンで一人分のローストチキンを買った帰り道、もっと自分を労わりたいと思った。
一人でクリスマスを過ごすのは勿体無いとね。
もっともっと自分を大事にしなくてはならないなと強く感じた。
これは「孤高」とかそういう問題ではない。
孤高の蓮さんでも、クリスマスくらいワイワイガヤガヤとしていてもいいはずだ。
それをあたかも一人でいなきゃならないみたいに決めつけるのは良くない。
信号待ちで、緩やかな風に吹かれながら空を眺めてみた。
雲一つない空だけが答えを知っているようだった。
何か決意のようなものが込み上げてきて、極力自分を孤独へ追いやらないようにしようなどと思った。
そもそも私には孤独が似合うなどと決めつけたのは紛れもない私だ。
それは自分を大切にしていないことになるのではないだろうか。
考えすぎてしまうのである。
家に一人でいるとろくなことがない。
一歩外へ出ればケロっとして、嘘みたいに気持ちが晴れることもある。
そんなわけでどうせ家にいるなら家でできることを積極的にやろうという気持ちになった。
全ては青空のお陰だと思う。
私には重低音のような鉛の空が似合うと決めたのも自分。
青空の下では少々恥ずかしくなってしまうのは、光に慣れていないから。
燦燦と降り注ぐ太陽の下では早く家に帰りたくなる。
しかし、冬の乾いた空気の中にいると、自分を見つめ直すことができる。
たぶんそれは今日がクリスマスだからだ。
この世には家に一人でローストチキンを食べているのは私以外にもいるだろう。
たまにはそんな人達で集まってもいいじゃないか。
ちょっと前向きになってきたかも。