早起きして読書。
あまりにも空腹だったので親子丼を食べたら眠たくなってしまった。
親子丼は電子レンジで温めるだけのものである。
とある友達が一人暮らしの私を気遣って、ダンボールで送ってくれたのだ。
一日一個ずつ食べているのでまだまだ沢山残っている。
どれを食べようかと悩むのが一つの楽しみになっている。
シャワーを浴びて、化粧して、友達と軽く飲みに行くことになった。
一人で寂しいクリスマスを過ごしているという私を気遣って誘ってくれたのだ。
丼ぶりセットをくれた友達といい、飲みに誘ってくれた友達といい、何だかんだ言っても私は友達に支えられて生きていることを実感する。
お子さんがいたりして大変な中、私に時間を割いてくれることは申し訳ないけれどもありがたい。
楽しんでこようと思っている。
埼玉県は天気が良好。
それには本当に救われる思いだ。
さてさて、これをまず書いてしまおう。
四十三歳になった私に子供を望む阿呆はいなかろう。
俺は子供はいらない、蓮さんさえいてくれたらそれでいい、みたいな人が私には必要だ。
たとえ若かろうとも、私に後ろめたさを感じさせない人がいい。
あまりにも年上だと、その男は開き直るものであると学んだ。
例えば、営みよりも酒を飲んで寝る方が彼にとっては重要なことなのである。
歳を重ねれば重ねるほどそうなって行く。
私としては、まだまだ女盛りなわけで、自分に興味関心を持たれないことに耐えられないのだ。
だから別れる以外に選択肢がなくなってしまう。
魅力がないのかしら、私が悪いのかしら、そうやって女は悩む。
諦めたら、もうそこは墓場同然。
まるで枯れて行くのを待つことしかできない萎れた花のようである。
中には浮気をするという選択肢もあるだろう。
魅力的な男は世の中ウヨウヨしているのに、そちらへ行かない理由はただ一つ。
自分に興味関心がなくなった男のことを、心のどこかでは待ち、期待を捨てきれず、何だかんだ言って愛しているからだ。
この事実を理解してくれる人はどれほどいるのだろうか。
私などは、その男が住む街を訪れるたび、すれ違うのではないかとハラハラしてしまう。
それなりに身なりを整え、構えた状態で足を踏み入れる自分に気づくことがある。
戻る気など更々ないのだが、恨むことも、憎むこともできないのだと痛感する。
決して会いたいわけではない。
思い出を美化しているわけでもない。
ただ、心のどこかでは、その男の中の記憶は常に綺麗だった私でいたいということだろう。
化粧もせずにその街を訪れるようになった時は、何かの終わりを象徴する。
その男に限ったことではない。
別れた男の中では、綺麗なまま生き続けたいという気持ちは誰にでもあっておかしくはないと思う。
これから行く街は、私にとってそんな街だ。
愛しているのに別れる意味は、分かる人はごく一部かも知れない。
私は自分が女でいるために別れたと言っても過言ではない。
女でい続けるためには、一緒にいてはならない相手だったというだけだ。
男にとっての母親代わりには、到底なれなかった。
隣にいてくれるだけでいいというのは、一種の自己中心的な我儘である。
いて欲しいと願うならば、満足させるのが「筋」だろう。
私はこの手のことをその街へ行くたびに考える。
いいところが一つもなかったけど、愛おしかったのかも知れないとね。
師走はあと残すところ数日。
クリスマスを乗り越えるのも一苦労なのに、正月を乗り越えるのはこれまた大変だ。
二十九日の夜、父さんに会うことになっている。
北海道から出てくるのだそうだ。
弟家族と会ってから帰るらしい。
寿司屋でも連れて行ってもらう予定である。
甘えることが親孝行と言ってくれる人もいるからね。