nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

ハングリー精神

自分に自分で頑張れ~!と叫んで励ましている。
一体幾つになったらそんな自分から卒業できるのだろうか。
十年前に、私はハングリー精神に支えられていますなんて言ったら笑われたけど、それ、今でも言っている。
ソイツに会ったら、まだそんなこと言っているって笑われるのがオチ。
でも私はソイツとは違うし、私は私だし、私以外の何者でもない。
私はソイツにはなれない代わりに、ソイツだって私にはなれない。
だから比べる問題でもないし、笑われることを恐れる必要もない。
だってしょうがないじゃないか。
私はまだまだ社会貢献なんて考えられる器じゃないし、自分の居場所を確保することで精一杯なんだから。
どこかに属することなく社会的なポジションを得たい。
それは私が伸び伸びと自己表現できる場所で、尚且つ生活できて、仲間達に支えられている喜びを感じられるということ。
そして願うことなら知らない人が大勢訪れるような環境で、私の作品を通して仲良くなれたら最高だ。
私には悪いところがあって、作品を貶すような人とは付き合いできない。
そして作品に興味関心を抱いてくれない人のことは心の底から信頼できない。
共感してくれる人は大勢いるのに、消えない孤独感はどうしてなのか。
良かったよ!感動したよ!って言ってくれる人が一人でもいれば十分なのにどこまで欲深くなったんだ?
違う、欲深くなったのではなくてある程度大多数の人に認められないと物書きとして成立しないって話。
だからまだ見ぬ知らない人に沢山の作品を見せて、共感してもらうことが必要だと気付いたんだ。
それはある意味駄文だっていいのだ。
ツイッターには書ききれないことが山のようにある。
ツイッターで呟くだけでは発散できない。
気付けば偉人のボットにも飽きてきて、自分のツイート見ながら自分を励ましている始末。
昔はよく偉人さんの成功体験の本を読んで生き方について学んだりした。
最近読まなくなったのは、自分の人生は自分にしか当てはまらない、他人の人生は参考にならないと知ったからかも知れない。
私が敢えて遠回りな人生を歩むようになったのは、若い頃の苦労は買ってでもしろと故人に謂われてその通り生きていたら四十歳過ぎちゃったって話。
早咲きの人もいるけど遅咲きでもいいんだ、一度でいいから花を咲かせてやりたいんだって云うのが私のハングリー精神。
幼稚で青臭くて笑っちゃうだろ?
先にも書いたけれど、笑われても全然問題ない。
そういうところは強気になれる。
それなのに、愛する仲間が去って行ったことについては未練タラタラ。
暫く泣いていないから泣き方忘れたけど、泣いてスッキリするものなら泣いてみたい。
相手の事情なのか、私の落ち度なのか永遠にわからない。
人に期待するなと散々自分に言い聞かせてきたけど、こんなに寂しい気持ちになるのはやはり期待してしまっていたのだろう。
人はいつか去りゆくもので、人は想像を絶するくらい私のことなど考えていない。
わかってる、わかってる、わかっているけどあんまりだろう。
こういう時自分の脆さを痛感する。
普段は割りと強気。
一歩間違えれば生意気。
だけど哀しみを拭い去るには気の済むまで書き続けるしかない。
そりゃ女々しいだろうよ、この女々しさを武器に文章書いている私は卑怯者か?
負のエネルギーは何でも文章に変えてしまう、狡い生き物なのかも知れない。
だけどそれだって立ち直りたいっていうハングリー精神。
街が滅びても、人々の心に残るものがきっとある。
とある人はこう言っていた。
この世から娯楽が消えることはないって。
娯楽とは究極の救済なのだろう。
だから私は文章を書いている。

 

 

破壊から再生へ

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  • 作者:橋岡 蓮
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