「最近、蓮さんが書く文章はテイストが変わったね」
たまにそういう風に言って頂けることがある。
たぶんそれは読んでいる本が変わってきたからなんだと思う。
エンターテイメントを好んでた私が、それじゃあ物足りなくなって、『禅』とか『哲学』とかそういう方向に走ったからだと思う。
わかり易く書いているつもりだが、伝わらないことがあるかも知れない。
私自身、まだまだ解釈が浅いので、難しくは書けないのだが。
今読んでいる本は小説なのだが、分厚い本が三冊。
上、中、下、と別れていて読み進めるのに大苦戦している。
所謂、古典というヤツだ。
私が読みたい本ではないのだが、この本を読んでもらわないと話が進まないと言われているので、無理矢理読んでいる。
頭の中では早く終わらないかなぁ~と思っている。
まるで労働のようだ、そう思った。
苦痛との闘いの末に悟りを見出すことがある。
それを体験するために、読書と云うものはあるのだそうだ。
そう言われたら、挫折するわけにはいかない。
時間が掛かっても読破しなければならない。
私としては、哲学書の方がよっぽど面白いのだけど、諦めず読み続ける。
もしかしたら最後の最後に面白い結末が待っているかも知れない。
私の机には、とにかく本が山積みになっている。
面白そうな本があると、直ぐに買うからだ。
だけどそれらは娯楽のために買った本ではないので、読むべき優先順位と云うものがある。
例えば、今なら『ロックンローラー』の執筆や編集に役立ちそうな本が最優先となる。
先日アマゾンで購入して、まだ手元に届いていないのだが編集の参考にするために買ったものだ。
届くことを待ち望んでいるのだが、まだまだ手元には来ないだろう。
だから、古典文学を先に読んでいるのだ。
この三冊から構成される本から何を学べばいいのかはまだわからない。
私が読んでいるのは序章に過ぎない。
ただ、古典に慣れることは必要だと思う。
私に理解できるかどうかわからないが、ドストエフスキーとか読んでみたい本が沢山ある。
何故、読んでみたい本が沢山あるのかと云うと、私は自分と似たような人物を探しているのかも知れない。
歴史上にある書物の中には、私のような人物を描いた物語があるかも知れない。
もっと分かり易く謂うならば、理解者に出会いたいのである。
そして、腑に落として、自分と云うものを噛み締めたいのだ。
そもそも、私がこうして毎日文章を書いて公開しているのも、心のどこかでは理解者との出会いを求めている。
勿論、私には理解者は沢山いるのだが、そういうことじゃない。
私に対して敬意を持って接してくれる良きパートナーを探している。
書き続けていれば、きっといつか運命に遭遇する。
そういう漠然としたものを信じているのだ。
毎日書くと云うのは目的がないと、簡単なようで誰にでもできることのようで、できないと思う。
今は亡き沖縄の祖父だったら、今の私を見てなんて言うだろうかと考える。
きっと、こう言ってくれるだろう。
「蓮ちゃんは間違っていないよ、そのまま自分を信じて突き進みなさい」
亡き祖父の代わりにそう言ってくれる人が隣にいたらどんなに心強いだろうかと考えてしまう。
「最近、蓮さんが書く文章はテイストが変わったね」
そう言われてふと思い出したことがある。
そもそも、私は良きパートナーを求めて書いていたのだと。
人生は長いと言う人もいれば、短いと言う人もいる。
私の場合はどちらなのかわからないが、一生このまま忍耐の人生はちょっと違うよな。
母親は言っていた。
「蓮の若さが羨ましいわ。だってまだやり直しが効くじゃない!!」
そっかぁ。
幸い子供もいないしなぁ。
そんなわけで、私は死ぬまで諦めずに書き続ける。
そのことに変わりはないのだが。