実は母さんに『破壊から再生へ』を読んでもらっていない。
出版社から本を出したことは知っているのだが、渡すことをためらっている。
この本は私が約十年前から書き始めた文章を一つのストーリーにしたものだ。
その中には、当然のように幼少時代の描写も含まれている。
母さんと再会する前に書き綴ったものなので、母さんに遠慮なく正直な表現をさせてもらっている。
果たして、このまま母さんに渡さなくてもいいのだろうか。
長い前置きを添えて、勇気を出して送ってみようかとも考えている。
読書好きな母さんが、娘の本を読まずに身体でも悪くして読めなくなったらそれこそ後悔しないだろうか。
そもそも、私の幼少時代は、全く母さんに自分のことを理解してもらえない寂しいものであった。
それを多くの人は「心理的虐待」と呼んだ。
私としては、そのようには思っておらず、むしろ自分を責める気持ちの方が強かった。
しかし、根っこの部分では母さんに対する愛情があった。
それも伝わらないままこの歳になってしまった。
母さんには幸せになってもらいたかったのだ。
と云うのも、先日母さんと長電話をした。
もしかしたら私は発達障害を持っているのかも知れないが、幼少時代におかしなことは無かったのか?
そういうことが訊きたかったのだ。
案の定、あったということ。
母さんからしたら、私に対してイライラして八つ当たりするしかなかったとのこと。
全く理解できなかったようだ。
だけど今になって思うことは、異変は多々あったということだ。
並々ならぬ集中力。
一日七時間~十時間のピアノの練習。
ところが片付けができないこと。
落ち着きがないこと。
極めて運動神経が悪いこと。
動作がとろいこと。
かといって、学力は平均より上だったこと等々、思い返せばキリがない。
「確かにそういう風に考えれば、全ての辻褄が合うわねぇ。私は蓮のことが怖かったし、理解できなかったもの」
かすかに声が聞こえた。
「気付いてやれなくてゴメンね」
しかし、母さんはテンション高めだった。
「生き辛いかも知れないけれど、気付いてハッピーになった人は沢山いるのよ!幼い頃に気付いてあげられれば人生変わっていたかも知れないわね」
そういう話から、私の著書『破壊から再生へ』の話になったのだ。
「今は、編集や校正の仕事をしているかも知れないけど、大作家になるかも知れないわよ。遅咲きだと思えばいいわよ」
「友達曰く、とにかくクリエイティブな仕事をしていた方がいいみたい」
「そうよ、スーパーのパートなんて辞めて正解よ!よほど鈍感力を持っている人でない限り、楽しんでスーパーのパートはできないわよ」
鈍感力。
私には無いよな~。
執筆、編集、校正の仕事は一人でできる。
勿論、お客様との遣り取りはあるが、基本的に個人プレーである。
幼少時代、ピカソの『ゲルニカ』の貼り絵を作った時、チームプレーができなかったのも同様だ。
誰も寄せ付けず、たった一人で創ったとのこと。
工場で働いていた時もそうだ。
一人作業の現場にたまたま当たったから務まったものの、ライン作業になった途端、辞めてしまった。
「黒柳徹子だってそうなのよ!自分を分析できて良かったじゃない。蓮は過去より未来の方が長いのよ!自分に自信を持って、得意分野を伸ばしなさいよ!」
今となっては、自分の得意分野が何なのか、分かっているから納得した。
でも残念がっていた。
「ピアノも書道も、芸術分野は何でもできる子だったのに。進学校へなんて入れなきゃ良かったわ。昔は皆が、強烈な個性だったから将来を楽しみにしていたのよ!」
期待を裏切ってごめんなさい、そう思った。
同時に、やはり私は母さんに認められたいという願望を持っていることを再認識した。
承認欲求は、いつまで続くのだろうか。
過度な期待は私を苦しめるだけなのだが、希望を持たせようとしているのかも知れない。
親も大変かも知れないが、子供も大変だよな。
子供がいない故に、親の気持ちをわかってやれないのだが。
私は親にはなれなかったかも知れない。
一人前の大人になれないのだから。
ふと、そう思った。