nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

刀を持たない生き方

気づいたことを書き留める。

幼少時代、ピアノの練習に明け暮れたのは母さんに認めてもらいたかったから。

ピアノが上手になれば、母さんが優しくなると信じていたからだ。

ところが、一向に優しくならなかった。

私が上達すればするほど、音大へ行けと言われた。

だが、私の目的は母さんに優しくしてもらうことだった。

音大へなど行きたいとは思っていなかったのである。

 

 

それとうり二つのことがある。

札幌を飛び出して富山県に行った私はプレス加工というものを馬鹿みたいに真剣にやった。

まるで幼少時代鍵盤を叩いていたかのように、死に物狂いでやった。

それは直属の上司に認めてもらうためだった。

もっと言うならば、私のことを好きになってもらいたかったのだ。

 

 

さらに似たようなことがある。

私は三十歳を過ぎた頃から文章を書くようになった。

それはこの世でたった一人でいいから理解者を見つけるためだった。

上達すればするほど、周りは物書きや作家になることを期待する。

しかし、私が望んでいるのは理解者なのだ。

文章を書くことで飯が食えるようになるって云うのは望んではいないのである。

ほぼ毎日のように千五百文字の投稿を書き、それでも現れないから本まで書いた。

金もない私が何冊も自費出版して、理解者を探した。

それでも現れないから、とある勉強会に参加して自分を磨き、成長させようとしている。

ところが、とんでもないことに気づいてしまったのだ。

 

 

何かと云うと、理解者が欲しくて文章を書き始めたはずが、気づいたら自分をないがしろにし、人のために書くようになっていたということだ。

もっと言うならば、たぶんだけど理解者は既に大勢いるかも知れないというような感覚もある。

それは紛れもなく日々の投稿や私が書いた本を通じてのことである。

やはり『書く』という『刀』を武器にして生きてきた甲斐があったのかも知れない。

きっとそうに違いはない。

ただ、会社での私は、刀の話を誰にもしていない。

『書く』という『刀』抜きに、人間力だけで勝負している。

それなのに、着実に受け入れられている。

どういうことかと云うと、私は『刀』がなくても生きられる可能性を示しているということだ。

あれ?だとしたら、私にとって『刀』とは一体何なのだろう。

本音を言うと、私が欲しかったのは、作家でも新人賞でもない。

パートナーが欲しかったのだ。

原点に還るとそういうことだ。

それなのに、書いても書いても、そこに辿り着けない。

もしかしたら、『刀』無しで生きられるようになることが必要なのかも知れない。

だとすれば、私にとって『書く』って何ぞや?!

 

 

何のために書き続けるのか。

何のために自分を磨き続けるのか。

自分磨きの答えは簡単である。

私のことを好きになってくれた人に、永遠に私を好きでいてもらうためだ。

そこは明確なのに、書くための目的は見えてこない。

私ってヤツは、目的がないと書けないのだろうか?

恐らくそういうことだ。

ピアノは母さんに愛されるため、プレス加工は上司から愛されるため、書くこともまた何らかの目的を必要としているのだ。

書くことをやめたら、私はどうなるのだろうか?!

これだけの歳月情熱を燃やし続けてきたことをやめるのか?!

じゃあ、その後の人生はどうやって生き抜いて行くと云うのだろうか。

ここまで考えて、答えが見つかるまで書き続けようと思った。

もしかしたら、全てが腑に落ちる納得など、存在しないかも知れない。

ただ、所謂一つの納得を手に入れるまでは、捨ててはならないような気がしている。