帰ったら郵便物が家の中にあった。
東北地方の友人からで、届くのを楽しみに待っていた。
ポストを覗いたら入っていなかったので、おかしいなと思った。
でも鍵はかかっている。
何故?
不気味だけど、私が覚えていないだけなのだろうか?
それとも誰かが侵入したのだろうか?
いや、まさかそんなはずはない。
きっとお酒のせいだと思った。
医療ミスだった例の男性ホルモンを多く含む薬から解放され、抑うつ症状改善薬を処方された私は嬉しさのあまり、その日池袋のプロントで濃いめの角ハイボールを二杯飲んだ。
そしたらまさかのまさか、駅で吐いてしまった。
これは間違いなく抑うつ症状改善薬のせいだと思った。
あぁ、人生は皮肉の連続である。
疲労感から解き放たれ身体が楽になったのはいいが、今度は酒が飲めなくなってしまうとは。
一難去ってまた一難とはこのことである。
とはいえ、尋常ではない疲労感から解放されたことで気持ちまで晴れやかになってきた。
これなら行きたいところにも行けるし、やりたいこともやれる。
私は決して小説家になりたいのではない。
物書きになりたいとは思うものの、目指すところは小説家じゃない。
じゃあ何故文章を書いているのかと云うと、そもそも理解者を探しているのである。
ここまで来ると、出会えなければ一人でもいいとさえ思っている。
元々私は文才があったわけでもなく、文学少女だったわけでもない。
三十歳過ぎるまで、文章の『ぶ』の字とも縁がなかったような人間だ。
そんな私が文章に出会ったのは、所謂神の導きのようなものである。
人生に体当たりを続けた私に『刀』のようなものを差しだしてくれたのだ。
それが、パソコンである。
たまに私はパソコンができると勘違いされることがあるが、文章を書くのにタイピングしているだけ。
パソコン技術は小学生並みでしかない。
だけど人並みにタイピングだけはできるようになった。
そうして私はかれこれ十年以上パソコンに向かって文章を書き続けてきた。
それがやがて日課になり、毎日書かないと気が済まなくなった。
結果として書くことは私のアイデンティティの確立に繋がった。
『何か』ないと、自分を支えることが困難なのだ。
子供の頃はそれがピアノや書道で、大人になれば仕事だっただけの話。
もっと分かり易く言うならば、やめてしまうことがとてつもなく怖いもの。
それが私にとっての書くこととなった。
今となっては、そんな私のことを理解してくれる人でなければダメなんだと思っている。
先にも書いたが、いないのであれば一人の方がマシなのだ。
話を戻すが、結局一番欲しいもの、つまりゴールは文章を書くことを大切にする私のことを大切にしてくれる人に出会うことである。
私の文章が好きだと言ってくれる人がいるならベスト。
つまり、未だに私は理解者を求めて文章を書いているということだ。
いっそのこと理解者など現れなくたって…というのは強がりである。
やはり最終的には私だって安らぎが欲しい。
そのためにはもう一つ、二つくらいハードルを越えなければならない。
今まではただがむしゃらにやってきた。
それだけで、ある程度のところには到達することができた。
ただ、もっともっと高いハードルが私を待っている。
ん?変な薬から解放されて人間に戻ることができた?
ん?副作用から酒が飲めなくなった?
明らかにステージが変わった証拠じゃないか。
死を決断してもおかしくないような疲労感は去り、神は私を再び導いてくれるのか?
時は流れる。
それと共に私の足跡もガッチリ刻まれているようなそんな感触。
何のため?
私だって安らぎを得たいのだ。
しかし、このままでは得ることはできない。
それは今まで生きてきた動物的勘でしかない。