すこぶる腹が減ったのだが、作るのが非常に面倒臭い。
まず第一に、フライパンを洗うことすら面倒だ。
前日、焼きそばを作って、フライパンがそのままになっている。
当然のことながら、皿も洗っていない。
やれやれ、叱る人がいないとどこまでもだらしなくなる。
乱雑な台所は見るのも嫌だ。
仕舞いには、煙草を買いにコンビニへ行くのも億劫である。
それでも空腹に耐えているのが限界だったので、マルちゃん製麵の醤油味にキャベツとベーコンと卵を入れて食べた。
お陰で台所がヤバいことになっている。
えい、これを書き終えたら一気に洗おう。
週末から来週頭にかけて編集作業で忙しいとはくどいほど書いたが、外出せざるを得ない用事も多々あって、実のところ泣きそうなのである。
打ち合わせのある日を「締め日」として作業にあたっているのだが、想うように物事が運ぶわけではない。
先ほどまでとある物書きを志している友人とチャットで話をしていた。
彼は、素晴らしい才能の持ち主だが、何かと苦労が絶えず、私と同じように苦戦を強いられている。
自分のことのように全力で彼を励ましていた。
私の著書を読んでくれるとのことで、早速梱包し、宛名を書いた。
私の著書が一つの励みになってくれることを願う。
不思議なことに、私の周りには精神の病を患った人が多い。
いわゆるそれは、芸術を志している人が多い証拠でもある。
ただでさえ生き辛い世の中で、彼らはもがき苦しんでいる。
精神病に関しては、ハッキリ言って多くの人が理解できない分野らしい。
私も持病を抱えているが、私の場合は程度が軽く、薬の調整も上手く行っているので、症状として表れることも少ない。
勿論、言い訳もしない。
持病を抱えていると言っても信じてもらえなかったりする。
キッチリ服薬しているので、日常生活には何の支障もない。
人間関係で苦しむこともほぼ無い。
あるとすれば、自分の中にある正義が世の中に通用しないジレンマを抱えているくらいなものだ。
しかし、人は人であり自分は自分なのだと言い聞かせれば、スルーできてしまう問題だ。
母親曰く、子供の頃の様子は発達障害そのものだったそうだが、片付けができないことを除いては、これまたごくごく普通としか思えない。
だから診断を受けるようなこともしていないし、たまに専門書を読む程度である。
ただ、私が想うのは、様々な事柄は私の独特の個性に繋がっているような気がしてならない。
なにがなんでも毎日文章を書かなければ気が済まないところも、見方を変えれば異常な行動かも知れない。
かといって当本人である私にとっては、自分を支えるための唯一の手段というだけの話。
不思議でもなんでもないのだ。
今、漠然と考えていることなのだが、『ロックンローラー』の制作が終わったら、人のためになる仕事をしようかと。
どういうことかというと、社会から弾かれ、居場所を失くし、途方に暮れている人の長所を見出し、それを活かすような活動がしたいということだ。
生活の支えには及ばなくとも、一つの生き甲斐になってくれたら私も嬉しい。
また、生き甲斐を自分だけで探すのは実に困難なことだとも考えている。
そこで必要になるのは、共感者だ。
もっと言うならば、その人のことをよく知った上で、隠れた才能を引き出すことが重要。
例えば、得意としている人に任せるのではなく、やればできる可能性を秘めている人に託してみるということだ。
そもそも『ロックンローラー』という作品は、デザイナー、カメラマン、イラストレーター、編集、校正、と多くの人がそれぞれの役割を担っている。
プロもいれば、これからの人もいるわけだ。
仕事をお願いした条件はただ一つ。
私のことを信頼してくれているかどうか。
そういう意味では、本文を書いている私は責任重大だ。
もはや、私の本ではあるけれど、私だけの問題ではないということだ。