そうか、十五日は私の誕生日か。
そのことについて改まって気づいたのは十四日の午後だった。
昼食を済ませた私は、思い付いたかのように『過去作』の原稿を引っ張り出してきて、手直し作業をしていた。
すると宅急便の配達員さんが来たり、普段来ないようなメールが来たりして実感した。
とはいうものの、四十代に入るとあまりチヤホヤされなくなる。
今年は怪我していることだし、予定もない。
誕生日くらい少しは調子に乗っても許されるのだろうか。
だとしたら軽く飲みたいかな。
ここまで振り返ってどうだ?
あっという間だと思う瞬間もあれば、長かったとも言える。
若い頃は四十代になるのが恐ろしかったが、実際になってみると悪くもない。
とはいえ、そろそろ花が咲いてもいいと思うのは私だけだろうか?
下積み期間が長すぎるよ。
ところが不思議なもので、四十二歳も四十三歳もあまり変わらない。
だから、無駄に歳を取るという感覚がない。
あくまでも何かの延長線上にあるだけの話で、危機感も湧かない。
当然ながら、焦りのようなものもない。
サボってしまった罪悪感もない。
所謂一つの通過点として、誕生日というものが存在しているかのようだ。
それにしても、この一年間は小説『ロックンローラー』の執筆もしていたので、実に沢山の文章を書いたと思う。
介護の仕事を始めたりして、とにかく忙しかった。
日々の投稿も、まぁ、よく書いたよな。
不運を乗り越えるためには現状維持が必要だった。
こういう時はどうあがいても飛べない。
死に物狂いで努力しても、現状維持。
手を抜いたら、下降していくのがわかりきっている。
だったら最大限の努力をして、下降だけは防ごうと考えた。
それが今の私である。
一年前に比べて目まぐるしい発展はないものの、維持することには成功したわけだ。
何かが減ったわけでもないし、何かを失ったわけでもない。
勿論、大きなものを得たわけでもないし、手応えもない。
万が一、これが好調な時だったら同じ努力で三倍、四倍、五倍伸びる。
それがちょうど来年に当たるわけだ。
やっと苦難を越えて光が見え始める。
恐らく、春ごろから加速して、素晴らしい夏を迎えることだろう。
四十四歳の誕生日には、こう言っているだろう。
「たった一年間で、こんなところまで来れたよ」
それでも私は引っ越しはしないつもりだ。
高級マンションに住むのには抵抗がある。
私には家賃の安い二DKのアパートが似合っているような気がしてならない。
それは自分のことを大切に思っていない証拠だとか言われそうだが、たぶんそういうことではないと思う。
私は金持ちになりたいのではないからだ。
金が入ってきたら、作品創りと蓮’sbarに使う。
だから高級車も要らない。
じゃあ何が欲しいのだろうか。
昔は居場所が欲しかった。
何県何市、みたいな居場所ではない。
自分が普遍的でいられる居場所であって、居心地の良い場所ではない。
結局この歳になって思うことは、心の中に居場所があり、常に大空を飛び、何かあったら帰るところはこのアパートであるということだ。
それ以上でもなければ以下でもない。
つまり、高望みはしていないということだ。
いい服も要らないし、高いワインも要らない。
欲を言うならば、世界中の読者かな。
ただ、それは自然とできるものだと思っている。
私は来年は群像文学新人賞を取り、知名度が上がる。
今、コツコツとやっている翻訳も、無駄にはならない日が来る。
この一年間は、どんなに羽ばたいて行っても根本的なものが何も変わらない私を見ていて欲しいかな。
現状維持の期間は終わったから、加速して行く。
高いハードル掲げて、それらを一つずつ飛び越えて行く姿を見せたい。
それを見守って応援していて欲しい。