都内に向かっている。
片道五十分の距離だ。
信濃町には三ヶ月に一度通っている。
晴天で暖かいが、土曜日は冷たい雨だそうだ。
家を出るまで孤独について考えていた。
天は私に孤独を用意したのだと思っていたからだ。
それを受け入れる覚悟を決め、勇気を出し、涙を堪えて一歩を踏み出そうと思っていたのに、日光を浴びたらどうでも良くなった。
日光にどんな力があるというのだろうか。
見事にぐちゃぐちゃ考えていたことが消え、穏やかな気持ちが私を包んだ。
風もなく気持ちが良かった。
散歩などしてもいいかなと思えるような気候だったが、電車の時刻が迫っていた。
たまには携帯電話を家に置いて、時間を気にせず過ごすことも必要なのではないかと思った。
電車の中でも景色を楽しむことなくこれを書いている。
昔は携帯電話なんてなかった。
その代わり誰とも繋がりを感じられなかった。
今ではSNSの普及により、似た趣味の人や、似た考え方の人と繋がることが可能だ。
そのお陰で孤独感が和らいでいるのは事実である。
私がそんなことを感じるように、これを読んでくれる方にもそんな風に思ってもらいたい。
どうでも良くなったのだが、書き溜めておきたいことがある。
もしかしたら、若い頃の感性は、孤独から生まれる賜物だったのかも知れない。
これ以上孤独を感じることは嫌なのだが、もっとストイックに生きた方ががいいものが書けるような気がした。
ストイックに生きるとはどういうことかというと、とことん寂しさを極めるということだ。
そうすれば今以上に人のありがたみがわかるだろう。
更に、心理描写も風景描写も美しいものが描けるようになるかも知れない。
研ぎ澄まされるというわけだ。
そこが最大のメリット。
デメリットは、卑屈になり偏った思考に陥る可能性があるということ。
自暴自棄になったり、破滅思考になったり。
一度そのパターンになるとどこまでも深みにハマってしまう危険性が私の場合孕んでいる。
それにしても、電車の中で文章を書いているとあっという間に時が過ぎる。
携帯電話は便利だ。
フェリーの中や飛行機の中は携帯電話が使えないので、精一杯記憶しようという力が働く。
この目に焼き付けようと、じっくり風景を見る。
そういうことが私には必要な気がする。
とある方はこう言っていた。
感性を磨くのに金も旅行も要らないとね。
確かにその通りだが、金や旅行はたとえである。
そこまで自分を追い詰めなければならないという危機感の話。
毎日書いていると、それなりに文章について悩むことがある。
過去作との比較はその最たるもので、やはり落ち込むのだ。
自分では磨いてきたはずのものが、実は衰退していると知った時に。
愕然としてしまうのである。
『野生味』がなくなったなどと言われた時は、身の毛もよだつほど腹が立った。
たぶん図星だったからだろう。
それでもやはりショックだった。
一人でいいやと決めつけるのは良くないかも知れない。
こんな人がいたらいいなと思い浮かべることが大切だと言われるが、私にはまだできそうもない。
何だかお互いの価値観の違いを受け入れて愛を貫くとか、実に面倒臭い。
こういうことを言うから人々が離れて行くのか?
それとも誰も離れてはいないのだろうか?
そんなことを考えるのも不毛な気がしている。
私のぶっ飛んだ考え方を受け入れる人はこの世にいるのだろうか?
心から望まないと、そういう運命的な人はやって来ないらしい。
やはり私の心に問題があるのだろう。
孤高の人でいたいと思う気持ちが半分と、そんなに私は強くないと思う気持ちが半分だ。
いい文章が書けることができればそれでいいのだが。