ゴキブリが八月一杯でクビになった。
詳しくは聞かなかったが、恐らく私が報告したコンプライアンス違反のことだろう。
それしか考えられない。
そうか、会社は揉み消さなかったか…。
当たり前の判断を下したようだ。
八万円を売り上げようが、やってはならぬことはある。
結局、古くから残っているメンバーは、私一人となった。
そう考えると、私もメンタルが強いのかも知れない。
生き残るということはそういうことだ。
私は午前中から調子が良く、終わってみれば六万六千円の売り上げ。
倒れそうな空腹と闘いながら喫煙所にいたら、タメ口ちゃんに呼び止められた。
「蓮ちゃん軽くご飯行かない?」
この誘いを断れるほど、私は気が強くない。
二杯までという約束で、プロントへ行った。
そして上辺だけの会話を繰り広げてタメ口ちゃんと別れた。
当然ゴキブリの話にもなったが、細かい話はしなかった。
もしかしたら、沈黙に耐えられないので、余計なことを喋り過ぎたかも知れない。
なぜ私が仕事を頑張るかについて、数字への意識を克服したいからだなどと喋ってしまった。
約一時間ほど、当たり障りのないことを喋り続けた。
原価計算の話、プラスワンキャンペーンの話、私が参加している勉強会の話、そして将来の話。
タメ口ちゃんは、そうだねなどと言いながら、私の話を聴いているようで聴いていないことがわかった。
隙あらば、何か言いたそうだったが、聴いてやる余裕もなかった。
と云うより、この子から発せられる言葉はどこからどこまでが本音なのかわからないという先入観から、聴く気になれなかったのである。
私はとても疲れていた。
タメ口ちゃんも疲れていたようだ。
私だけが結果的に生き残ったことが、嬉しいようななんなのか不思議な気分だった。
だけど、暑さの中を駆け抜ける生温い風のように、安堵感に包まれるような気がした。
あの日上司にゴキブリのことを報告して良かったのだと思うことにした。
まぁ、いつかはいなくなるであろう人だった。
本人にとっても良かったのかも知れない。
ゴキブリも海産物販売の仕事は辛そうだったから。
結局私を責める人はいなかった。
また九月からゼロスタートを切るのみである。
言うまでもなく、身体はガタガタ、顔は疲れ切っている。
気前がいいのはいいが、断る勇気も持たなければ。
身体は一つしかないんだから。
心を開いているようで開いていないタメ口ちゃんとの一時間はなんだか長く感じたような気がする。
帰宅して、やっと冷房が効いてきた部屋でこれを書いている。
帰りの電車の中で、タメ口ちゃんから連絡が来た。
『今日はありがとう、愚痴ってばかりでゴメンね』
そう書いてあった。
愚痴?
確かに疲れているとは言っていた。
だけどあまり耳に届かなかったようだ。
振り返ってみれば、私は八月、プラスの数字を出せなかった。
一日のノルマ五万円に対して、それに届かない日の方が多かったことになる。
九月はなんとしてでも数字を叩き出したいものだ。
だが、楽しみにしていることが山ほどあって、疲れたとも言ってはいられない。
ただ、ゴキブリの件に関して言えば『最後に勝つのは正直者』であることを証明したような気分でもある。
生き残った者勝ちだろうに。
この世は理不尽だが、私はまだ天から守られているのかも知れない。
九月に入れば新人が入ってくるのだとか。
元ホストからこのように言われている。
「見本になるような人でいてね」
私は果たしてそれに応えられるだろうか?
はて、見本になるような人とはどんな人だろう?
いつまでも新人ではない、私も先輩になるのだ。
また新たなステージが始まるということだ。
まずは数字、一にも数字、二にも数字、三、四がなくて、五に数字。