こんなに疲れていていいのだろうか。
QPコーワゴールド錠剤を自宅に忘れて、コンビ二や薬局に寄る暇もなく、カフェインやエストロンモカで襲ってくる睡魔を誤魔化していた。
ところが胸やけして栄養ドリンクも飲めなくなった。
もう、焦点も合わないくらい疲れて、声も出なかった。
それでもたった二時間半で三万二千八百円の売り上げを上げた。
そして悠々とノルマを達成した。
それなのに、完全に体力を消耗してしまった。
ゴキブリは最終日だったが、一言も口を利かないで、私は会社を出た。
すると、池袋駅前でなんとタメ口ちゃんにばったり!
こりゃ、連日誘われたらたまったものではないと思い、とても疲れていることを強調して帰ろうとした。
「私、もう無理!辞めたい!」
出た!
また、心にも無いことを!
もうね、クソ疲れているんだからタメ口ちゃんの嘘っぱちのくだらない話になんて付き合ってられないよ。
「でも明日も仕事なんでしょ?私は休みだから」
逃げるように改札を抜けた。
そうそう、私は休みで上野へ行ってランチなのだ。
タメ口ちゃんのことなどどうでもいい。
私が休みの間にゴキブリもろともタメ口ちゃんもいなくなってもワタシャ痛くも痒くもない。
他人のことなど構っている余裕はないのである。
人間って疲れすぎると、こういう末路なのだ。
ところがこれだけ疲れていても、書くことはできる。
書いて嫌なことを忘れるだけではなく、自分の気持ちや考えを整理することにも繋がる。
私の場合、書かなかったらどうなるのかと考えてみた。
誰彼構わず自分の話をするだろうか?
たぶんしないだろう。
なぜなら、自己処理能力があるからだ。
自分の中にあるものを自己完結できるのである。
だったら聴く専門になればいいのにな、と思う。
では、なぜ私は会話する相手に自分の話をするのだろうか?
要は、律儀だからだと思う。
どういうことかと云うと『礼儀』に尽きる。
誘ってくれた礼儀、話かけてくれた礼儀、話を聴かせてくれた礼儀である。
一方的に聴いているだけの人がたまにいるが、私はそういうのはズルいと思ってしまう。
だから、私も私の話をするのである。
別に、聴いて欲しいわけではない。
おこがましいようだが、フィフティフィフティになろうとするのである。
それなのに相手が心を開いて本音を見せてくれないのはなぜなのだろうかと考えている。
恐らく、私の話し方や質問の仕方、話題の投げ掛け方に問題があるのだろう。
そうなると、私に責任があるということになる。
私くらいになると、そのように着地させている。
そうでもしないと、相手を責めるばかりになってしまう。
人を責めるより自分を責める方が楽なのだ。
なぜなら、自分は変えられるけど他人は変えられないからだ。
ただ、いちいち誰かと関わる度に自分を責めていたらそれこそ疲れて疲れて仕方がないよな。
そう考えたら、段々と面倒臭くなってきて、気の合う人とだけ付き合えばいいじゃないかと思ってしまう。
まぁ、そうとも言ってられないのが世間である。
だからコミュニケーションの勉強をしている。
それは未来の旦那のためでもある。
自分のために自己投資するようじゃまだまだで、まだ出会ってない未来に自己投資できるようにならなきゃならないそうだ。
そもそも誰かのために金を使えない人は自分にも金を使えない人だ。
そういう人は大事な局面を逃し、言ってみれば勝てない人だ。
人生は勝ってなんぼ。
敗者になりたくないなら、まずは飛び込むってことを覚えることだと思う。
それができる人は少ないからこそ希少で、それができない人はその他大勢なのだろう。