nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

悲鳴

たぶん自分から親しかった人が離れて行くことが死ぬ程怖いくせに「去る者追わず」って強がっているだけ。

自分で自分のツイッターを見ながら傷口を塞ごうとしている作業。

昔は寂しいとか悲しいとか虚しいとか、口癖だったけど最近言わなくなっただけ。

何故かって云うと、恐らく私は恵まれている部類に入るんだって云う自覚を持ち始めたから。

そのことに気がついたのは今年の正月。

当たり前のようにお節食べて酒を飲んでいる光景にゾッとした。

昔はどうだった?

家に一人でいるのがそれはそれは恐ろしくて旅館でバイトしてみたら、家族連ればかりで打ちのめされた。

雪の中バイトを終えてジムニーで帰宅する途中、コンビニ寄ったら何も食べ物が売っていなくて仕方がないからカップラーメン持ってレジへ行った。

正月から人のいないコンビニで働く方も憐れだけど、三十歳そこそこの女の子が元旦にカップラーメン持ってレジに立つことほど可哀想なことってないよなって。

正月なんてなければいいのにってずっとずっと思っていた。

私には帰る場所もないし、あったとしてもそこへ行く金が無かった。

なんせ富山県なんて辺鄙な場所で一人で生きていたから、どこへ行くにも金が掛かる。

こんな時都会の雑踏に塗れれば、孤独だって云うのを忘れられるのかな。

そんなことを考えてもみたが、東京まで行く経済的な余裕がなかった。

だから孤独を紛らわすために年中無休で働いていたってだけで、本来は怠け者。

働くことなんて好きじゃない。

そんな私は只ひたすら寂しかっただけで、金も何も要らないからとにかく信頼できる友人が欲しかった。

多分それは彼氏でも旦那でもなく何でも語り合える友人で、別に会えるとか会えないとか関係ないけど生きていてくれればそれだけで心強いって云うか。

そんな人いなかったから作家やミュージシャンを友達って呼んでいて、

それもまた憐れな話だよな。

結局毎日毎日ひたすら一人で、楽しみって云えば仕事が終わってからビール飲むことくらい。

そんな日々に限界を感じた私はパソコンに向かうことにした。

今私が自分で自分のツイッター見ながら傷を塞ごうとしているように、自分で書いた文章を読んでそれに救われるみたいな日々を過ごした。

それをいつか本にできたらいいなって考えていたけど、本当に本にすることができた。

夢を叶える毎に孤独になって行くこの感じ、誰かわかるかな。

一寸先は闇ってこういうことを謂うのかな。

カップラーメンを元旦にコンビニで買った屈辱よりははるかにマシになって、貴女って幸せだね、旦那さんがいて良かったねなんて言われるようになって。

私が求めているものはこういうことじゃないんだけど、貴女輝く草原に辿り着いたのねって。

違う、違うんだよ、私が描いているものとは百八十度違うんだけど、人から見れば私って幸せなのかなって云う自覚もあって全面的に否定できずにいる。

そもそも読者の夢を壊してはいけないとか、何様な使命感に駆られて話を合わせている自分もいて。

ただ虚しいったら半端ない。

私が想い描いているものって云うのは好きな人達に囲まれている楽園なんだけど、自分から人がどんどん離れて行く感じがヒシヒシと感じられて。

本を出す前の方が私って注目されていたし応援してもらっていて、貴女はもう幸せになれたでしょ、みたいな扱いになってるのかどうなのかわからないけど、五年前にタイムスリップしたように強がっている自分がいる。

孤独を愛してるなんて、嘘だ、嘘だ。

本当は寂しいクセに達観なんてしている気になって、ただツイッターだけには本当のこと書いていたんだけどそれを読んでドン引きするヤツもいて。

正直になればなるほど人は離れて行くということを痛感してる今日この頃。

 

破壊から再生へ

破壊から再生へ

  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)