ちょっとヤル気と自信を取り戻したようだ。
私って落ち込む時はなんだかどうしようもないほどに落ち込んでしまうのだが、頭の中さえ整理されれば立ち直りも早い。
落ち込んでいる間、自分を励ましてくれる本を読んだりしていた。
普段はあまり読まなくなってしまった自己啓発も読んだ。
私のことを鋼のように強いと思っている人もいるみたいだが、決してそんなことはない。
ただ、友人と話をしたり本を読んだりしながらも、ちゃんと立ち直る力は持っている。
自分で言うのも変な話だが、一応繊細さは持っているはずだ。
そんなに図太い人間ではない。
上がり症だし、緊張すると手が震えるし。
だけど、生命力が強いと言われたことがある。
確かに、確かに、そういうことなんだよなぁ~。
生命力は強い方がいいと思う。
まぁ、生命力のない人も儚げで、今にも折れそうで、支えてあげたくなるのだが。
それはそれで魅力的なのだけど、ハッキリ言って誰もが元気になりたいと思っている。
つまり、生命力の強い人に人々は集まる傾向にあるのではないか。
生命力の強さと我の強さでは、全く別の話だ。
生命力の強さとは、芯の強さと似ているかも知れない。
人は人自分は自分で、常に自分らしい「在り方」を追求している。
自分の考え方をしっかり持っていて、軸がしっかりとした生き方ができる人のことを「芯が強い」と言う。
我の強さって云うのは、自分の意見に服従させる強引さがある。
似て非なるものだ。
何が言いたいかと云うと、出会う人に元気や勇気を与えられる人間でありたいという話だ。
生命力の強い人は、それができる。
底知れぬパワーを持っているからだ。
生命力って云うのは、しぶとさでもある。
殺そうと思ってもなかなか死なない。
別の言い方をするならば、継続する力があるということ。
何か痛いことがあって直ぐに折れてしまうのではなく、雑草魂のように踏まれても踏まれても這い上がってくる。
それはまさに生命力の強さだろう。
本人は孤独を感じていたとしても、人々にはそうは映らない。
寧ろ、生命力の強い人は孤独になればなるほど、皆に生きる勇気と希望を与える。
私は過去に、占いみたいなもので「貴女は孤独になればなるほど光る」と言われ、そうなんだと思っていた。
しかし、私は非常に寂しがり屋なので、今いる友達は大事にしたいと心から思っている。
自らを孤独に追いやることは、もうしなくていいはずだ。
支え合って励まし合いながら生きて行けばいいと思っている。
また、こうしてSNSをやっていると「心の友」に出会うこともある。
私が書いた文章に足跡が残っているだけで、勇気付けられたりする。
そうやって私は自分と云うものを上手くコントロールしながら、保っているわけだ。
何かが欠けてもダメだ。
多くの人から戴いた愛はどういう形でお返しすればいいのか考えた。
それは、きっといつか蓮の花を咲かせること。
もしかしたら、待っている人がいるかも知れない。
余談だが、私が長生きしたくない!と言ったら悲しんでくれた人がいた。
私の愛すべき人達に、一度でいいから咲いた花を見せられたらどんなにいいだろうかと思った。
そう考えたら、人生とは達成の連続だな。