橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

絶望からの脱出

静寂が訪れた。

鳴り響くのは古びたエアコンの音くらいだ。

パソコン上に開かれた白紙を見ながら、少しの間スマホで友達とメールの遣り取りをしていた。

午前中、珈琲タイムを終えた私は暫しの休憩を取るために友達に連絡してみたのだ。

彼女は直ぐに応じてくれた。

私はいつも通り文字や絵文字を打っていたつもりだったのだが、感性の鋭い彼女は私のちょっとした変化に気付いたらしい。

 

「今日は調子が悪そうだね」

「何でわかったの?」

「文字の流れがいつもと違うから」

 

だそうだ。

実は前日の夜、私にとって絶望的なことがあった。

なんてことはない。

いつも通り私の話に興味を示してくれず、無視されたというただただそれだけのことなのだが、えらく絶望的な気分になってしまったのだ。

この絶望感を一体何度味わったことだろう。

そしていつまでこういうことに耐えれば希望が見えてくるのだろうか。

そんなことを考えながら寝床に就き、朝を迎え、ルーティンをこなしていたのだが、やはり絶望感から抜け出せていなかったのだろう。

メールにさえもこの絶望感は伝染してしまったらしい。

 

彼女は私がメールをした時は昼ご飯を食べていたようだ。

私は午前中十時頃もう既に早めの昼食を済ませていた。

彼女から私の様子がおかしいと言われなかったら、この絶望感を一人で抱えたまま夜を迎えることになっただろう。

ところが彼女は私が絶望的になった内容については追求しなかった。

今、一人でいるなら彼のことは忘れなさいと。

そういうアドバイスをもらった。

とにかく上を見ろと。

嫌なことを考えるのはやめなさい、本のことだけ考えなさいと。

仰る通りだと思った。

私の悪いところは絶望的になった時、そこからなかなか抜け出せずに身体に症状が現れてしまうことだ。

倦怠感、極度の疲労感、そして絶望的な気分が身体中を覆うのである。

そして嫌なことばかり想い出しては溜息をつく。

しかし、メールで何人かと話をした私は正常を取り戻し絶望感なんかに負けてたまるかと這い上がりパソコンに向かった。

私にはそんな暇など無い。

絶望から這い上がって仕事をしなければならない。

それをハッキリと自覚させてくれる方とも話ができた。

 

村上龍文学的エッセイ集』にはこのようなことが書かれていた。

キューバ人は何故絶望を味わいながらも明るいのか、と云うようなことだ。

その理由は、ポジティブで明るくないと乗り越えられないからだと書いてあった。

「なるようにしかならない」は「何とでもなる」「何とでもする」「何とかなってきた」というもの達から生まれる言葉であると。

それを読んだ時、そっくりそのまま自分に当てはめることができた。

「なるようにしかならない」という達観したような言葉は、どんな時でも何とでもしてきたという力強い経験から発せられるものである。

経験は間違いなく自信を生む。

そう考えれば過去に虐げられたことがある者は、放っておかれた経験があるということだ。

更に村上龍氏の著書にはこうも書かれている。

 

「放っておかれることによって初めて自立の可能性が生まれる」

 

つまり残酷な過去を経験し、世の中から放り出されたことがある人は自立の必要性を人一倍痛感していることになる。

私みたいに幼少時代無性の愛を両親から与えてもらえなかった奴は自立心が強いってことだ。

だから好きでもない人と生活のために結婚してしまった自分を責め続け、敗北感をひたすら味わうことになるのだろう。

好きな人との結婚だったら、今頃二人三脚で夢に向かって歩いていたことだろう。

決して幸せになることを諦めたわけではない。

ただこれだけは声を大にして言いたい。

絶望の先にしか希望はない。

即ち、絶望の淵に立たされている者には必ず希望が見えてくるはずだと。

それだけが言いたかった。

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破壊から再生へ

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  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
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