nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

全てには終わりが付き物

夕飯を食べていたら派遣会社から電話が鳴った。

 

「急なんですけど、明日、先日の工場行けますか?」

「すみません、別の仕事が決まってしまったんですよ!」

「。。。あぁ、そうなんですか。工場、どうでしたか?」

「あの、挨拶が大事な職場と聞いていたのですが、皆が皆、挨拶の一つもできないじゃないですか!どういう教育をなさっているのかな?と思いました」

「それって、○○会社の直接雇用の人じゃないですか?」

「いえ、恐らく全員派遣社員です。帽子で判断しろと言われたので」

「。。。そうですか、それは話を上に上げておきますね。ということは、もう行きたくないと?」

「長期のお仕事を戴けなかったので、他の仕事を決めてしまいました」

「では、週三日の勤務も難しいということですね。。。」

「申し訳ないのですが、出られません」

 

そうキッパリ断ったら、電話を切ってくれた。

やれやれ、私もスーパーの仕事が決まったから強気になれたものの、これで決まっていなかったら頭を下げていたのかも知れない。

工場勤務のような労働と云うものは、よほど待遇が良い場合を除いていつまでも続けるものではない。

これは実際に労働している者にしかわからないかも知れないが、私としては労働とは自己発見に多いに役立つものだと思う。

何故なら、日銭を稼ぐために汗水垂らして働いていると、悟りの境地に達することがある。

長年続けていても、自己発見に至らない場合は恐らくそれが適職なのだろう。

そうでない限り、野望があるならある程度経験したら辞める方向で考えた方が私は良いと思う。

若いうちは沢山汗掻いて、コキ使われながら一生懸命働くことは必要だ。

人の痛みがわかる人間になるためだ。

しかし、志を持っている者はいつか労働を辞めると云うのを一つの目標にしなければならない。

 

例えば、デザイン業界に興味があっていつかデザイナーになりたいと思っている人は、デザインの勉強をしなければならない。

それ一本では食べて行けないから労働をすることになる。

だけどそれでいいやと思ってはいけない。

いつかはデザイナーとして食べて行けるようにならなくてはならない。

 

それと一緒で、私は散々労働をしてきたが「活字」で食べて行きたいという野望がある。

編集・校正をしながら執筆で食べて行きたいと思っている。

つまり、スーパーの労働からはいずれ卒業しなければならないのだ。

若い頃十年以上肉体労働をしてきたからこそ思うのだが、志を持っている者にとってはその十年間でもう腹一杯だ。

十年間やったら十分労働の美学や重要性を伝えることはできる。

四十代に入って、何時までも続けることは身を削るだけ。

寧ろ自分の勉強ができず、時間の無駄になる。

他にやりたいことがなく、労働に生き甲斐を感じている人はそれでいいと思う。

 

先日工場で働いてみて思ったことがある。

コイツ等の鏡になってもしょうがないよな、ということ。

挨拶もできない人々と同じポジションに立つ必要はないと思った。

スーパーではまだ働いていないが、いつかは辞める。

自分の仕事が忙しくなったら辞める。

長くても一年か二年だと思っている。

誰かと付き合う時、別れるために付き合うのと似ているかも知れない。

恋愛と一緒で、いつか終わりは来る。

だから辞めるためにスーパーでは完全燃焼したいと思っている。

仕事には難易度があって、それによって辞められるタイミングがズレる。

一年で終わる仕事もあれば、生涯を費やす仕事もある。

先日行った工場のようにたった一日で、もういいわと思う仕事もある。

繰り返すが、労働は人間にとって必要なものだが、志ある者はその志に向かって行かなければならない。

つまり、労働はいつか辞めた方がいい。

志が労働だ!という人以外は、身を削るだけなのだ。

スーパーはいつまで続くか楽しみだ。

辞めるのは早ければそれに越したことはない。