nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

安らぎを捨てるということ

例えば、私の場合、家庭運にあまり恵まれていない。

先日母親とは和解したものの、この四十一年間、家庭と云うものに安らぎを覚えたことは一度もないと断言する。

だから私は多くの人が当たり前に持っている安らぎと云うものを探してきた。

勿論、結婚もしてみたし、外の世界に安らぎを求めたりもした。

もっと具体的に謂うならば、友情や恋愛や仕事に安らぎや居場所を見出そうとしていたのだ。

ところが、そう簡単に安らぎが見つかるわけではなかった。

心から友達と呼べる人に出会うのもえらく時間が掛かったし、恋愛に安住するようなこともなかった。

どちらかと云えば、友情も恋愛も非常に刹那的なものが多かったのだ。

何故なら、私は寂しさを抱えていたからだ。

本音と本音の付き合いができなくとも、身体だけの関係でも、いないよりはマシだという考え方だった。

今は真逆の考えである。

本音同士で付き合いができないのならば、不必要だと思っている。

付き合う人は少なくて良い。

その代わり、その友達のことは心底大事に想うことが大切なのだと思っている。

仕事に安らぎや居場所を求めたこともあった。

言うまでもなく、見つからなかった。

どんな仕事に就いても、違和感と虚無感を感じていた。

なんで自分はこの仕事をしなければならないのだろうかと。

体当たりで、死ぬ気で一生懸命仕事をしたが、居場所じゃないと気付いてしまう日が訪れるのである。

そうしてあっちにぶつかり、こっちにぶつかり、ボロボロになるまで働いた。

しかし、全力で様々な仕事にぶつかっていくうちに、唯一価値があると思うものを発見したのだ。

それは文章を書くということだった。

だから死ぬまでそれを続けようと心に決めたのだ。

軸と云うものができた私は、彷徨うことがなくなった。

どんなに貧しくとも、苦しくとも、嫌われようとも書くことを止めなかった。

金に困ってバイトをしても、私の課業は書くことであるという軸があるので、バイトをして虚無を感じることはなくなった。

そんな中、憧れもあったし理想もあって結婚したのだが、安らぎとはかけ離れていた。

自分の幸せを追い求めるということは、結果として幸福が遠ざかるのだと認識させられた。

何度も何度も別れを選択しようと思ったが、結局思い留まるものがあった。

何故か。

私にとって、結婚はある意味逃げ道だったという原点を忘れなかったからだ。

そして、文章を書きながら生活していくことを考えたら、別れない方が有利。

そうすると、目の前には忍耐の文字しかなくなる。

私はこの男に一生耐えなければならないと思うと物凄く暗くなる。

それなのに、私は日々明るく生き生きとしていられる理由が二つある。

一つはこうして文章を書いていることで、自己分析できているからだ。

自分を再確認し、皆に読んでもらえる喜びを噛み締めて楽しんでいる。

もう一つは、ここから逃げられないという現実を受け入れて、相手を憎むのではなく許すことにしたのだ。

何を言われようが、どんな態度を取られようが、許す。

他人を変えることなど出来ないし、文章を書き続けるためにはここにいるしかない。

ある意味八方塞がりの状態の最後の切り札が「許す」ということである。

正面衝突する価値のある人間と、相手にもならない人間がいる。

だから全てを受け入れつつ流して許すことは、最大の逃げ道であると悟ったのだ。

そして、私は「敢えて」自分らしさの欠片も無いが、旦那に嫌われない努力をしている。

身を削り、精神を擦り減らして、自分らしくないことをするのは紛れもなく「書く」ためなのだ。

笑われようが馬鹿にされようが、書くためだったら何でもする。

恥も屈辱も受け入れる。

そういう覚悟を持っている。

つまり、幸福や安らぎを捨てたのだ。

それらを追い求めていたら、自分の軸がブレるということがわかっているからだ。

書くためだったら、プライドすら捨てることができる。

全ては己のプライド(誇り)を守ることに繋がるのだが。

矛盾しているようだが、そういうことだ。