「なんだかんだ言ってもここから逃げられないのだから、ポジティブに考えて、せめて私だけは明るく生き生きと生きている他ないのです。
逃げ道を見つけたら、私はその道を選択します。それが私にとっての『縁』ということだから」
上記のようなことを友人に言ったのだが、そうだそれをここに書こうと思った。
しかし、なんだかんだ言ってもこういうことなのだ。
実母と義母を悲しませたくない。
実母は当然のことながら、私の幸せを願っているので本当の意味で良い人と再婚して欲しいと思っている。
これまた当然ながら、義母は何がなんでも別れないで欲しいと思っている。
とある人は言う。
「一度結婚したら、生涯添い遂げなければならない」
そうか、一生忍耐の生活を送らなければならないのだな。
確かに私より恵まれていない人は五万といる。
雨風凌げる家があって、食べることに困っているわけでもない。
仕事も順調だ。
私は恵まれているのである。
しかし、過去の経験から、人と人の結びつきというものはこんな表面上のものではないということを常々感じているのだ。
例えば、こういうことだ。
「この人は私に対する甘えから八つ当たりして短気を起こすけれども、根っこの部分には優しさを持っている」
というような「根っこの部分の優しさ」みたいなものが無いから、ただひたすら腹が立ったり気持ちが不安定になったり、体調が悪くなったりする。
根っこの部分に一つ、信じられるものがあるならば、許すことが可能になる。
唯一あるとすれば、寂しい人間であるということだ。
私はこうやって自分に言い聞かせ、度重なる場面で許してきた。
「心を開ける友達もいない、だからこの人には私しかいない」と。
最近相手の態度が益々生意気になったなと感じていたのだが、どうやらSNSで友達ができたようだ。
そうすると、私としてはこう思うのである。
「淋しくなくなったのなら、私っていらなくね?」
生活が落ち着いたら出て行こうかなぁ~と頭をよぎるが、そう云う時に限って実母や義母の存在が頭をかすめる。
悲しませてはならないと。
色んな人がいて、色んな意見を戴く。
蓮さんの好きなように生きて行けばいいと言う人もいれば、筋は通さねばならないと言う人もいる。
幸せな再婚をして欲しいと言う人もいれば、自立しろと言う人もいる。
相手が可哀想という人もいれば、蓮さんに責任があると言う人もいる。
自分を責めるなと言う人もいれば、相応しいパートナーを見つけなければダメだと言う人もいる。
でも、やはり私は実母の娘だから、母親の意見を最優先するかな。
今は忍耐するしかない。
だけど、いい人がいたら、その人の元へ逃げるだろう。
それを縁と云うのだと。
縁でありタイミングなのだと。
結婚と云うものは、結婚してみないと相手のことはわからない。
結婚してから態度が変わる人もいる。
付き合いが短いとか長いとかではなく、一緒に生活してみないと見えてこないことが沢山ある。
友人はそのように言っていた。
だから自分を責めるなと。
私としては、一緒にいる限り愛せるように良いところを探したり、ポジティブに考えたり、それなりに努力してきた。
勿論相手だってそうだろう。
だけどぶっちゃけるならば、やはり夫婦ってこんなものではないと思ってしまう。
人と比べるのは宜しくないと思っている。
もっと酷い夫婦は五万といる。
我が家も表面上はとても仲が良く、近所から羨ましがられたりするくらいだ。
しかし、肝心な信頼と愛が無い。
喧嘩にならないようにどうでもいい話に逃げ、衝突を避けている「嘘」の夫婦なのだ。
魂と魂でぶつかり合っていれば、意味のある喧嘩ができるはずだ。
私が本音をぶつけても聞いていないし、相手は本音を言わないし。
そして、やはりこう思うのである。
出口、見つからないかな~。
勘違いして欲しくないのは、幸せになりたいわけじゃないのだ。
わかり易い言葉で謂うならば、脱出したいのさ。
とは云うものの、諦め半分なのだが、人生の目的は?と訊かれたら現状から脱出したいと答えるかも知れない。
出口、見つからないかな~。