nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

労働者にとって光とは?

労働とは、運命との遭遇のために行っているものである。

体当たりでぶつかって仕事をすることによって、天から運命が舞い降りて来る。

私はそれだけを信じてパン屋さんで働いている。

 

何故そんなことを考えながら労働をしているかと云うと、シンドイものだからだ。

シンドイ労働には光が必要だ。

給料のために働いている人もいる。

将又、私のように運命との遭遇を期待して働いている人もいる。

そうでもしないとやってられないのが労働だと思う。

 

キャンプ明け早々、職場へ行ったら四方八方から注意を受けた。

先ず、店長の耳にシフト変更の内容が伝わっていなかったらしい。

店長に呼び止められ、何故伝えずに休んだのかと訊かれた。

いやいや、シフトを管理している責任者が店長に伝えればいいだけの話じゃないか。

私が注意を受けるなんて、理不尽だ。

それでも仕方がない。

 

「すみませんでした、わかりました」

 

このモヤモヤはパン屋さんへ行っても続いた。

前の日に値引きしていなかった商品を値引きするのは私の仕事ではない。

確かに私が気付いて、率先してやれば良かった。

 

「橋岡さん、なんでこれ、値引きしていないの?」

 

また私のせいだ。

それでも仕方がないから謝った。

あぁ、ちょっと慣れてくるとこういう目に遭うんだな。

私は二ヶ月目に突入したところである。

とばっちりを食らう絶好の的なのだ。

おまけに人によって言うことが違う。

食パンが二種類あるのだが、片方だけ値引きするように教わった。

ところが、両方値引きするようにと言われた。

やれやれ。

仕舞いに私が休んでいた間に出た新商品のラッピングの仕方。

表と裏が逆だったらしい。

だったら、ラッピングする前に言ってくれよ!

まぁ、新商品をラッピングする前に、間違いはないか確認しなかった私が悪いのだが。

ポテトベーコンドッグを作ろうとしたら、ポテトサラダが無いことに気付いた。

上司に報告したら、申し送り書を見てくれ!と言われた。

入荷は翌日になっている。

広告の品なのに、商品が作れなかった。

 

そんなこんなでバタバタと勤務を終えた。

 

労働とはシンドイものである。

肉体的疲労のみならず、精神的な疲労も嵩む。

私くらいになると、時計ばかり気にしている。

早く終業時間にならないか。

頭の中はそれでいっぱいだ。

本当に光が無いとやってられない。

ところが労働者にとって光を見つけることは容易ではない。

何を光とするかは、人それぞれ。

仕事後のビールを光にしている人もいるだろう。

給料を貯めて、何か目的がある人もいるだろう。

若しくは、ただ強制されて生活のためだけに働いている人もいるだろう。

先にも述べたが、私は運命との遭遇のために労働している。

体当たりでぶつかって仕事をすることによって、天から運命が舞い降りて来る。

私はそれだけを信じてパン屋さんで働いている。

多くの人からパン屋さんは続けた方が良いと言われる。

しかし、私が抱く志はパン屋さんにあるわけではない。

私の運命は「書く」ことだと思っている。

つまり、それに通ずる道を切り拓くためにパン屋さんンで労働していると云うことだ。

当然ながら、給料を戴いている。

しかし、その金はあまり当てにしていない。

もっともっと別の使い道があるはずだ。

 

もしかしたら、運命との遭遇を光とすることは難しいことなのかも知れない。

目には見えないものだからだ。

たとえ見えなくても、必ず舞い降りてくると信じている。

運命とはそういうものだ。

汗と涙の結晶は、私を相応しい道に導いてくれる。

だからこそ、労働はシンドイものなのだ。

そう簡単には道は拓けない。

でもそれはそう遠い未来ではないと思っている。

見えないけれど、いずれ目の前に立ちはだかるはずだ。