こうして公にしていると、たまに書きたいことが書けない時がある。
こりゃ、確実に嫌われるよな、とか、ドン引きされるよな、とかね。
いくら正直者とはいえ、一応のデリカシーはあるわけで。
でも、そんなデリカシーの壁をぶち破った瞬間が面白い文章だったりする。
ネックになるのは、私の中にある勇気一つのような気もするが。
例えば、中には下ネタが大嫌いな人もいたりする。
そういう方への配慮はしなければならない。
また、私という女が下品になってもアカン。
正直に答えただけだもん!で済まされないこともこの世にはある。
しかも、文章が魅力的でなければならない。
例えば、旦那に対して疑心暗鬼になっていた頃、自己嫌悪が半端なかった。
連日、そりゃもう連日、旦那のことばかりここに書いた。
自分でも嫌になるほどだった。
だが、旦那のことだから書けるのだ。
中には共感してくれたり、コメントをくれたりして励ましてくれる人もいた。
これが不倫ネタなら、もっと面白い反面、全てを正直に書くことは困難なわけだ。
まぁ、もし私が不倫したら、「彼への想い」を書きまくるかも知れないが。
対象が旦那だっただけに、ここではかなり発散させてもらった。
嵐のような日々だったが、シレっと乗り越えて冷静な自分を噛み締めている。
それも散々と書きまくったからだと思っている。
やはりアウトプットは重要だ。
自分も見えてきて、周りも見えてきて思うのは、パニックに陥っている人に対して医師でもない限り、そっとしておくしかできないということだ。
私の場合は時間という薬が一番効いたと思う。
安定剤でも酒でもダメだった。
音楽もダメだった。
「時間薬」があるから、暗闇にいる間は時が経つのを待てばいい。
てか、それしかないでしょう。
闇から脱出してみて思うことは、私の考え方が変わっただけで、旦那は何も変わっていないということだ。
私がパニックになっていたのも知らないのではないだろうか。
ただ一つ良かったのは、やはり正直に書き続けたということ。
ウンザリした人も中にはいるだろう。
しかし、最近の私を見て、「あ、蓮さんが戻った!」と思って安堵している人もいるのではないだろうか。
闇を抜けて、自分を客観視して思うことは、やはり私は喜怒哀楽が激しくないと面白くない。
好きなだけ泣き、好きなだけ遊ぶ。
それが私のあるべき姿なのではないだろうか。
離婚して一人ぼっちになるのが怖くて、なかなか踏み切れないのだが、良くも悪くも私のストッパーになっているのが旦那である。
時にはたづなとなってくれているのだが、時には非常に厄介である。
私が独身に戻ったら、どんなキャラになるだろうかと想像する。
デリカシーという壁を突破して、純粋無垢に正直に生きる気がしてならない。
中には人妻の蓮さんが好きという人もいるかも知れないが、少数派と見ている。
結婚しているから安心しているという、親のような愛で見てくれている人もいるだろう。
とある人の言葉を借りるならば、旦那が可哀想と云うのは「自己投影」なのだそうだ。
果たして、このままで私は私の人生を生きられるだろうか。
旦那が必要以上に私のことを束縛をしなくなる日は来るだろうか。
一言で言うならば、男性諸君が憧れているような人妻とは退屈そのものである。
逆に、それがいいのか?
かといって、結婚にはいい部分が沢山あるから捨てがたい。
一緒にいられる人がいるということは、実に精神衛生上良いことだ。
アドラーも言っていたけど、夫婦とは最も難しい問題なんだとさ。
唯一の救いは、私は周りの人々からこう言われることだ。
「蓮さんは結婚しているようには感じない」
それはきっと、私がデリカシーの壁を突破しようとする瞬間が垣間見れるからなのだと認識している。
ちょっと遠回し過ぎたかな?