nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

自由とは何か?

選挙の後買い出しへ行って、帰宅してそのまま勉強会に参加した。

清々しいと云うか、晴れ晴れした気持ちである。

何故なら、無事に投票を終えたのと、勉強会が私にとってとても有意義だったからだ。

内容は、独立自尊で生きて行くための心の在り方みたいなものだ。

 

「義務を認識することは、自由を捨て去ることなのか?」

 

この問いに対して私はこう思った。

 

「義務を認識することは、自由を捨て去ることではない」

 

要は、義務というものは、どんな環境を選んでも付いてくる。

雇われだろうが、フリーランスだろうが、以下のようなものはどこへ行っても求められる。

 

『〆切り』『クオリティ』『信用』『実績』などだ。

 

自由を求めて独立すればするほど責任というものが付いてくる。

私が想うに、完全なる自由というものは無いのである。

例えば、会社員だった頃も、在宅ワークをしていた頃も、フリーになった今もやっている仕事は同じ。

クオリティの高いものを〆切りまでに仕上げるということだ。

それなのに、私は社会に適合できなかった。

一生懸命、真面目に仕事に取り組んでいるのに、気付いたら爪弾きにされていた。

何故だろうか。

 

 

先日お会いした執行草舟先生の直近の方から、メールを戴いた。

執行先生は私のことをこう仰っていたそうだ。

 

「橋岡さんはかなり運命的にも個性の強い方で、今後の展開が楽しみだ」と。

 

そのメールには私の著書『破壊から再生へ』の感想も添えられていた。

激しさの中の静かな愛を感じてくださったとのこと。

それを読んで、大変嬉しく心強い気持ちになることができた。

個性的…だから社会と合致しなかったのかも知れない。

しかし、仮に文明が滅びたら、私のようなヤツが生き延びると言っても過言ではない。

根拠のない妙な自信が私の中に湧いた。

そう、この二週間という休職中、私は何をしていたかと言うと、十二月発売のお客様の原稿の校正を徹底的に行っていた。

その間に執行草舟先生にお会いすることができ、見事に運命が変わったのだ。

目には見えないかも知れないが、ステージが変わったのである。

そうしてスーパーのバイトに蹴りをつけ、この度勉強会に臨んだ。

面白いように、階段を一段ずつ登っている感覚だ。

私はなるべく積極的に意見を述べた。

普段は無口でほとんど喋らない私だが、メンバーにも慣れてきたのだろう。

割とリラックスして参加することができた。

 

 

話を戻すが、果たして自由とは存在するのだろうか。

勉強会の中で非常にわかり易い説明をしてくれた方がいた。

 

「小学生は学校へ行くという義務を果たしているから、放課後という自由を与えられている」

 

つまり、義務の中にしか自由はないという考え方だ。

そういうことなのだろう。

ただ、私の日常で考えた時、自由時間などが無いことに気付いた。

一人の時間は仕事の時間。

こうして文章を書くことも、読書さえも、私にとっては仕事の一環。

だから「自由」と聞いても、ピンと来ないのかも知れない。

完全なる自由なんて、どこにもないように思えてしまうのだ。

キャンプへ行っても、スマホとパソコンから離れられない。

それは責任感から来るものである。

この講義ではこういう答えだった。

 

「自由とは勝ち取るものである」

 

様々な困難にぶち当たって勝ち取った自由とは、どれほどの価値があるのだろうか。

人間はどこまで行っても、完全なる自由には遭遇出来ないと云うのが私の考えだ。

多くの人が、漠然とこう言う。

 

「自由になりたい」

 

何故だ?

自由というものとはどんなものだという認識の上で、自由に憧れるのだろうか。

私は三十八年間あまりにも孤独で、圧倒的自由だった。

しかし、あまりにも不自由だった。

自由というものを突き詰めると、人間はとてつもなく不自由なのだ。

義務があって、責任があって、制約があるからこそ自由というものが眩しく見えるのではないだろうか。