珍しく二階の自室でこれを書いている。
自室に置いてあるデスクトップパソコンには『フォトショップ』が入っている。
それを使って、十二月発売の電子書籍の表紙を作っていたのだ。
これが慣れない作業なので、なかなか上手く行かない。
もっと格好良く作れないものかとぼやきながら、一旦作業を止めた。
と云うのも、朝からひたすら校正をしていて、気付いたら夕方だった。
この記事を書かなければ気が済まないので、ノートパソコンを持ちこんで音楽を聴きながらポツポツと書くことにしたのである。
どうやら、私は何でもできると勘違いしている人がいるようだが、実はできることなど何もない。
よくここまで生き延びたと感心するほどだ。
逆説的に言えば、できることなど何も無くても生きられるということでもある。
ただ、これだけは言える。
生きる上で必要なことはバイタリティである。
バイタリティさえあれば、何もできなくても何でもできてしまう。
若さとかそういう問題ではない。
本気度かな?
本気で何か成し遂げたい者は、がむしゃらに何でもやってのけてしまうものなのだ。
自分ではここが限界だと考えていても、傍から見れば余裕があるように見えるのはそういうことだ。
もっと言うならば、現状に満足せずに何かを変えようとする時、バイタリティさえあれば変えられるということ。
そもそもバイタリティとは、「活力」「やる気」「モチベーション」などが当て嵌まる。
確か村上龍氏が言っていたのだが、バイタリティがある人はふと立ち止まって挨拶しただけの人でさえ元気にしてあげることができるそうだ。
確かにそうだ。
よく友達もこういうことを言う。
「バイタリティのある蓮ちゃんだからできるのであって、誰にでもできるわけではない」
そう言われて
「そうか、私には人一倍バイタリティがあるのか」
などと気付く。
運も強いのかも知れないが、運の強さは自分で作るものだと思っている。
あくまでも私の自論だが、非常にわかり易くできていると思う。
何かを得たい時は、何かを捨てる。
運を上げたかったら、無茶をする。
無茶ができるということは、それは自分にとって無茶ではなかったということ。
私はそのように考えている。
今までの私の労働は、無茶苦茶だった。
まさに奴隷そのものだった。
しかし、その経験を経て、私はバイタリティと運を掴んだ。
だから結果オーライなのである。
そもそも、私にバイタリティが無かったら、近所のスーパーのパートを辞めて独立しようとなどしない。
怒られながら労働している方が遥かに楽だと知っているのに、敢えて私の辞書から『雇用』という言葉を消した。
前にも述べたが、本気だからだ。
かといって、頭に鉢巻きをして校正などをしているわけではない。
普通に生活している。
じゃあバイタリティが何故生まれるかと言うと、現状が嫌で嫌でたまらないからだ。
このまま死ぬなら生まれてこなけりゃ良かったと思うほどだ。
何とか数年耐えて、抜け出したいのさ。
つまりこういうことだ。
できることは何もないけれど、バイタリティだけは人並み以上に持っている。
バイタリティさえあれば、不器用さも無知さえも飛び越えることができるっていう話。
仮に私からバイタリティがなくなると、このままでいいような気がしてしまうのだ。
「どうせ私なんかさ、バイトでもしながら文章書いていればそれでいいのかな…」
なんてね。
私が想うに、バイタリティがある時っていうのは他人に影響を与えてしまうものだ。
要は若干疲れている人にとっては迷惑な存在なわけだ。
逆にモチベーション高く生きている人には元気を与えられる。
私自身どんなにバイタリティがあっても、疲れている人の心に寄り添える人間でありたいとは思っているのだが。