墓参りから帰ってきて、洗濯をしながらこれを書いている。
義理の母さんから色々古着を戴いた。
サイズが合わないかなと思ったが、割とどれもすんなりと着ることができた。
実は来月法事があるのだが、喪服の上に着るコートが無かった。
気を利かせてくれたのか、黒いコートまでもらった。
もう着る機会がないからとのことだった。
ちょっと薄手ではあるが、法事はこれでバッチリだ。
親戚の集まりとか緊張するけどね。
さてさて週が明けて、私は諸事情により新しい屋号を取りに税務署まで行ってくる。
とある方から頼まれて、新しい仕事を引き受けることにしたのだ。
詳細についてはまた後日触れるが、まずは、屋号を取らなくちゃ。
わからないことも多々あるのだが、勉強しながら進めていくイメージで。
あくまでも私の場合だが、わかっていることをやるのではなく、わからないことでも始めてしまう。
責任感だけで突っ走り、スキルや知識は後から身に付ける。
戴いた仕事は絶対に断らない。
チャンスは確実にものにする。
わからないことは、ネットで調べることもできるし、知っている人に訊くこともできる。
大切なのは、とりあえず走り始めることではないだろうか。
私にとって好運期である今月中に新しいことを始めた方がいいと考えている。
どうか上手く行きますように。
今月は新しいことを始めまくる一ヶ月になるかも知れない。
まだまだ追いついていないのだが、今週中にやるべきことを片付けてしまうつもりだ。
何を始めるかについては楽しみにしていて欲しい。
どんな反応があるのか楽しみだが、怖くもある。
そう、何かを始めるということは実は怖いことでもあるのだ。
しかし、先にも述べたようにチャンスを逃してはならない。
こういう時に発揮させられるのは「なんとかなるさ」という楽観主義。
ものごとや事態の成り行きを、全て良い方向に考える心理的傾向のことだ。
つまりポジティブ思考ということだと思うが、たまに馬鹿にされることもある。
なんでもかんでも良い方向に考えていると、注意が足りないとか、慎重さに欠けるなどと言われがちだ。
しかし、私は自分の人生を振り返ってみて思うことがある。
楽観主義だからこそ、乗り越えてこられたのだと。
悲観主義だったら、それこそ今この世にいないかも知れない。
具体的な例を挙げると、若き頃の私の夢は「大人になること」だった。
何故なら、大人になれば付き合う人も住む場所も職業さえも選べるからだ。
子供の頃は親の保護下にいるものの、選択の自由が極めて少ない。
強制的に指定された学校へ通い、関わりたくない人間達と関わる。
少し大人になったら唯一のプライベート空間である自室を与えられるくらいだ。
たまに母さんは実家に帰ってくればいいじゃない、と云うようなことを私に言う。
しかし、この歳まである程度自由に生きてきた私にとっては、檻の中に入れられる気分なのだ。
貧乏でもいい、あらゆるものを犠牲にしてでも自由を選択するだろう。
自由とは、とても不自由なものである。
孤独の代償が自由なのであって、仲間に囲まれたり家族の中にいたりしては自由は存在しない。
この言い方には語弊があるが、周りに人がいるということは実のところ不便ではないということだ。
とはいえ、この世の中でポツンとたった一人ぼっちになれば初めてわかる。
自由とは恐ろしく不自由であるということを。
一見すると自由に生きているように見える私でさえ、本当は自由ではない。
かといって、自由に憧れているわけでもない。
孤独と不自由さを味わい尽くしたからだ。
もうあの頃に戻りたいとは思わない。
つまり、自由とはそれほど素晴らしいものではないと云うのが私の自論。
これは本当にこの世の中でポツンとたった一人ぼっちになってみたことがある人にしかわからないかも知れない。
抽象的過ぎたかな?
11月20日20時~
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