nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

多くの人にはないもの

全く連日連夜、バタくそに疲れている。

休みの前夜だったので、馴染みのプロントへ久々に寄った。

韓国料理のダッカルビを注文した。

肉料理って久々で美味かった!

いつもなら濃いめの角ハイボールを頼むのだけど、すこぶる疲れていたので普通の角ハイボールにした。

一時間以上かけて帰ることが頭をよぎったからだ。

帰宅したら二十二時半だった。

遅くはなったが、休みの前夜は疲れ方も違う。

とはいえプロントで一杯引っ掛けてきたので、もう飲む気にはならなかった。

 

 

まじまじと考えたことがある。

この会社のどこに私みたいに『書く』というような命の次に大切なものを持っている人がいるだろうかと。

ただ何の目的もなく、金のためだけに働いている人の方が多いかも知れない。

友達や親はいても、文章を通じて日々読んでくれる人に支えられている人はいないだろう。

そう考えると、私は心細くなんかないような気もしてくる。

ただ自由で時給がいいからとコールセンターに来ているのだとしたら、崩壊しそうな心を何かで誤魔化しながら生きているとしか思えない。

そのことが哀れと感じるのではない。

私は恵まれているということが言いたいのである。

確かに上辺だけ見れば、バツイチ女で子供無し、親はいるようでいないとなると惨めでもある。

恋人くらいいてもいいが、誰と付き合っても上手く行かないようだ。

友達だって多い方ではない。

ただ広い意味で考えれば、私は友達だらけである。

私の文章や本を読んで応援してくれる人は沢山いる。

コールセンターで非正規雇用労働者として働く若者達はもしかしたら虚無感さえ抱かないのかも知れないが、大人になったらそれはそれで生きることがしんどくなる。

自分と人を比べる必要もないが、自分には大切なものがあるということを忘れる必要もない。

そのように考えられるならば、あまり自分を卑下することもない。

こうして物事を組み立ててプラスに考えられる時とそうじゃない時と云うのがある。

やはり休みの前夜ということもあり、精神的に余裕があるのかも知れない。

 

 

また、コールセンターを巡るドタバタ劇を俯瞰的に見てみた時、根を下ろす場所ではないというのもわかってきた。

これだけ情熱を注げるものがありながら、その道では稼げないというのも人生の皮肉。

この世には天職と適職があるということは誰もが知っていること。

この歳になっても、適職がわかっていないだけの話。

朝から夕方まで獲得件数ゼロ件だった私。

営業はダメだ、コールセンターはダメだと言いながら、夕方からラストまでに四件獲得しまくってきた。

夕方までは、どうせ辞めるんだし、みたいなことを考えていた。

しかし、周りの皆が次々と獲得していたので泣きたくなってきたところで火事場の馬鹿力みたいなものが沸々と出てきた。

こういうことがあると、もう少し粘れそうな気にもなる。

相変わらず、腹が決まらない。

周りからは最近ずっと不調だった私に対し「橋岡さんおめでとう」と称賛の声。

夕方まではあんなにしょぼくれていたのに、やればできた自分に心から安堵したりして。

 

 

このままこうして激動の日々がしばらく続くのかも知れない。

それは、半月とか一ヶ月とか短いサイクルの話だが。

この現場に橋岡蓮ありきと思わせたいという想いと、早く適職を探さなくてはという想いが交差して複雑である。

人生に於いて、書くことを見つけた私は、それ以外にはもう何も見つからないような気もしている。

だとしたら、食べるための仕事はある程度条件が整っていれば何でもよかったりして。

それにしても、書くことの成功とは一体何なのかわからないまま終わるのか?

それもはっきり言ってむごい。