nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

根底にある愛

セミナーを終えて、夕飯を終えて、一服を終えて、パソコンに向かっている。

ネタは全く無い状態だが、とっくに寝るべき時間を過ぎている。

日中はバタバタしていて、パソコンに向かう時間がほとんどなかった。

急いで書いて、早く寝よう。

 

 

「ネタがない時はネタがないことをネタにすればいいんだよ!」

 

友人からそう教わったので、それに従うことにしよう。

なぜネタがないかというと、一日中バタバタしていてパソコンに向かう時間がなかったのと、セミナーに参加していたのと、家から一歩も外に出ていないからだと思う。

そういう日でもネタを探さなければならないのだが、あまりにも時間が遅くなってしまったので、案の定睡魔に襲われている。

夕飯に焼きそばとハンバーグを食べたらお腹がいっぱいで、一気に睡魔が押し寄せたわけだ。

ここまではよくある話。

というか、いつもの話。

 

 

ところがちょっとしたハプニングがあったのだ。

私もそうだが、自分の常識は相手には通用しない。

勿論、誰もが各々の常識を持っている。

だから人間関係は難しい。

幸い、私はこの歳になって、あまり人間関係で苦労はしない。

苦手分野があるように、苦手な人がいるくらいなものだ。

そういう人とは関わらないという術を大人なら誰しも身に付けている。

はて、苦手だなと思っているのにその人から離れない場合もある。

なぜだ?

答えは簡単だ。

分かり易く言うならば、愛があるから。

苦手なのに離れないのは、その人の根底にあるものを信じているからだ。

それは何かと言うと、私への愛だ。

私としてはちょっぴり苦手だと感じているけれども、この人は私のことが本当は好きなのだ!

そう信じる気持ちがあるから離れないのである。

話をするたび、会うたび、どうしてこの人はこういう考え方しかできないのかなぁ~などと嘆くが、私のためを想って言ってくれているんだと思うと、早い話憎めないということになる。

すると、私からもその人への愛が芽生える。

つまり、苦手だと思っていても、関係性は続くというわけだ。

 

 

たまに言われるのだが、蓮さんの周りに集まる人はクセが強いらしい。

先ほど述べたように、クセは強いけれども彼ら彼女らは私のことが好きなんだという思い込みから、私の中では愛すべき人に変わっているのだ。

それを見て、騙されているとか、いいように使われているとか言うのはちょっと路線が違うという話。

表面的なものではなく、本質を見た方が良いと、私は思う。

あくまでも、彼ら彼女から、愛の告白を受けたわけではない。

しかし、交友関係って根底にある愛を信じられるからこそ生まれるものではないだろうか。

逆に、あ、この人は私のことを馬鹿にしているんだなとわかってしまったら私から離れてしまう。

蓮さんはそれになかなか気付かないとも言われる。

人間関係を育む上で、馬鹿にされていることに気づかないのは罪なのか?

あれ?先日も同じようなことを書いた気がする。

いっそのこともう一回言うぞ!

馬鹿にされていることに気づかないのは罪なのか???

大人なんだから、社会人なんだから、全ては自己責任なんだから、結局罪かも知れない。

くどいようだが、私が馬鹿にされていることになかなか気づけないのは、彼ら彼女らのことが憎めないからだ。

縁とか恩を重んじているからだ。

縁や恩を取っ払えば、いくらでも嫌いになることは可能だ。

なかなかそうはいかないのが、人間ってものではないだろうか?

私がお人好しなのか?

はたまた、お馬鹿なのか?

縁とか恩とか愛とか、そういうものを重んじているから騙されやすい?

それはいかがなものだろうか。

自分のことが大嫌いだと言った母さんにこう言ったことがある。

 

「私みたいな人間が世界中にいたら、世の中平和だと思う」

 

しかし、私には心の奥底に自分は特別でいたいというような承認欲求を持っている。

だったら、天然記念物にでもなってやろうか、みたいなね。