申し訳ないが、平和すぎる。
ちょっとでも切ないエピソードでもあれば、センチメンタルな投稿が書けるのに。
至って平和なのである。
悩みらしい悩みがないことが悩み。
あんなに人生思い煩っていたのに、霧が晴れたようである。
ただ、私の小説『ロックンローラー』は人々に勇気を与えたようだ。
どうやら自害してしまった有名人がいるそうだ。
訃報の中でも『ロックンローラー』が届いたことによって元気を奪われなくて済んだとのご意見もあった。
なぜなら、『ロックンローラー』は生きているもの全てに勇気を与える小説だからだ。
即ち、私が生きているということは、人々に希望を与えていることにも繋がるのである。
ただ、最近感じることは、私ってクズなようでクズでもないかもということだ。
本当のクズは、他人を妬み、他人と比較し、他人を軽蔑する。
私にそのようなところはない。
自己肯定感が低いと思っていたが、そうでもないような気もする。
自己信頼し、人類愛を以て隣人を愛し、無頼の思想で生きている。
媚びず、群れず、ブレることなく。
人間はたった一人で生きてたった一人で死ぬと言われているが、私は個人的にはそうでもないと思っている。
あくまでも私の場合だが、私は数少ない友達に支えながら生きているが、並びに多くの読者の方と共に生きている。
友達と読者の方の線引きは極めて難しい。
中には、友達や読者の垣根を超えて親しくさせて頂いている方もいる。
恐らくそういう人は一生の付き合いになるだろう。
ただ、彼ら彼女らは私がいなくなっても胸を張って生きて行けるだろうか。
そんな恩着せがましい心配をしていたりもする。
ただ、彼ら彼女らを心配する気持ちは私の中の愛である。
隣人を愛する人類愛がそうさせるのだ。
どんなに疲れていても、彼ら彼女らが翌日この投稿を楽しみにしてくれているんだと言い聞かせてパソコンに向かう。
それは廻り回って、私自身のためになっているのだ。
だから心から彼ら彼女らに感謝している。
逆に、私はこうして書いているものを楽しみにしていない人のことは眼中にない。
もっと言うならば、これを一日の活力にしてくれる人のことが大切なのである。
だから、毎朝アップさせて頂いているという話。
彼ら彼女らの活力は、私のルーティンの源になっているというわけだ。
つまり、支え合って生きているということだ。
先日、私の元へ一通のファンレターが届いた。
誰からかは言わないが、私は死ぬほど嬉しかった。
そこには口説き文句やおべんちゃらは一切書かれていなかった。
だからこそ、私への敬意と誠意が伝わってきた。
小説『ロックンローラー』をべた褒めするわけでもない、素直な気持ちが書かれていて胸が熱くなった。
大袈裟だが、生きていて良かった、そう思えた。
世の中に負けてしまう人がいる中で、私は負けない。
なぜなら、彼ら彼女らを愛しているからに他ならない。
理解者をひたすら求めていた私から卒業したと言っても過言ではない。
皆様から沢山の愛情をもらったので、今度は溢れんばかりの愛情を注ぐ番だ。
こんな私にはラブソングがしっくり来るのかも知れない。
『ロックンローラー』を発売する前は、チバユウスケがアイラブユーって歌っていて、死ぬほど羨ましかった。
私も誰かから心底アイラブユーって言われたいと思っていた。
だが、多くの方から言ってもらえた。
だからこそ、今度は私が言う番なのだ。
証明したいことはただ一つ。
無頼精神とは、隣人をとことん愛してこそ成立するというもの。
群れないし、媚びないけれども、人類愛で以て人々に接するがゆえ、ブレずにいられるということだ。
ちょっと難しいかも知れないけれど、愛でしか自分を支えることはできないのである。
私の溢れんばかりの愛情を受け止めてくれる人は果たしているだろうか。