冷蔵庫の中にビールがないので、水を飲んでいる。
寝不足と二日酔いが重なってフラフラなのだが、これを書くことにした。
我ながら思うことがある。
若い頃は、四十代なんて大人だと思っていた。
ところが私ときたら、四十代になっても子供の頃からあまり変わらない。
それは良くも悪くもだ。
考えてみれば、変わるチャンスは幾らでもあったはずだ。
なのに変わろうとしなかったし、変わりたくもなかった。
なぜなら、自分の中にある幼稚性を愛していたからに他ならないのである。
人はよく私のことを見て、楽しそうだと言う。
この歳になって、我を忘れて弾けられるということは楽しいのだろう。
記憶がなくなるまで豪快に飲み、あとから客観的に見ても笑えるということはたぶん幸せ者なのだろう。
なぜ、私は楽しい酒が飲めるのかについて考えてみた。
自分の中に後ろめたさがないからではないか。
酒に酔うことを恐れて、人前では飲まない人もいる。
ところが、私は平気で誰の前でも泥酔することができる。
そんな自分のことが、たまに愛おしく思うわけで。
自信がないと言いながら、自己信頼はしているからこそ、楽しい酒を飲むことができる。
そのようなことを、ふと思った。
誰とは言わないが、ウチの母さんは極めて酒グセが悪い。
自分のことが嫌いで、信頼できないからだそうだ。
だけど母さんは、私の何倍も正直すぎる人間だ。
その分、私より数倍人間というものに傷つきながら生きている。
もう少し母さんが鈍感な人だったら、世の中で孤立することはないのにと思ってしまう。
しかし、多かれ少なかれ極端な繊細さを持つ母さんのDNAを受け継いだからこそ私は『ロックンローラー』という小説が書けたわけだ。
私の中にある極端さは、まさに母さん譲り。
それでも私には、母さんの極端な繊細さは痛々しく見える。
母さんは、酒が入るとネガティブになり、泣いたり死にたいと言ったりする。
誰かと笑ってしまうくらい羽目を外したりできないのだ。
母さんからすると、私は警戒心の欠片もなく、危なっかしいそうだ。
私としては、警戒心など要らなくないか?と思ってしまう。
警戒心なんてものを持っているからこそ、人と楽しい酒が飲めないのだ。
生きる上で重要なことは、あくまでも私の場合だが、如何に楽しい酒を酌み交わすことができるかである。
いっそのこと、断言してやる。
ある意味私は開き直っている。
私って云う人間は、歩く「社会問題」のようでありながら、根っこの部分は太陽のように明るいのだ。
だから人々と楽しい酒が飲める。
大袈裟に言うならば、私には人々を照らすことができる。
キーワードになるのは、人間臭さ。
大いに泣き、大いに笑い、大いに暴れる姿から、人々は何を得るかというと安心感だ。
私だって俺だって、泣きたい時には泣けばいい。
そんな風に感じてくれる人がいることを、私は知っている。
毎日毎日書いていても、やはり伝わらないのだなと思うこともある。
一度私と一緒に酒を飲んでくれた人は、私のことを忘れないだろう。
根拠などどこにもないが、一度飲めばもう友達精神で生きている。
母さんも楽しい酒が飲めるようになればいいのにと思う。
人間をどこまでも信頼できる私とは真逆で、全く人間に心を開けない母さんは、味方が私しかいない。
私だけは母さんがネガティブになろうが、泣きながら酒を飲もうが、どんだけでも付き合える自信はあるのだが、母さんは私に嫌われたくないから私の前では控えるのだ。
それについては、本当に母さんは勿体無い人だなと思ったりする。
これからも私の酒道楽は続く。
ストレスがあって酒に逃げているのではない。
確かめたいのさ、その人との絆を。
四十二年も生きていて、沢山の人と飲み交わした経験から言わせてもらうと、さし飲みすれば大体わかる。
ま、記憶がなくなることも多々あるのだが。
その時は、スペシャル楽しい時間だったってことだ。
友よ、またね!