橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

神は私の良心

最近何を書いてもあまり反応がないので、何を書いていいか悩む。

ただし、私の言いたいことは人間臭さかも知れない。

例えば、私が文句を書いたとする。

それは、人間臭さらしい。

ポジティブな人間を装う人は、ポジティブなことしか書かないそうだ。

楽しいこと、嬉しいこと、ハッピーなことばかり書くらしい。

私みたいに、冴えない勘違い野郎の話題なんて書かないらしいよ。

私は時にネガティブなことも書く。

それが人間臭さに繋がっているそうだ。

つまり、私はこのままで良いとのこと。

やはり良くも悪くも正直でいることが、肝心なのかなと思った。

人間臭さについては何度もここで書いてきたはずだ。

私がどうのこうのではなく、人間臭さに救われて生きているという話。

私は人間臭い人が好きだ。

かといって、短気なのはもう勘弁。

包み込むような優しさを持っているんだけど、嫌なものは嫌と言える人。

そういう人に、心からリスペクトする。

人間臭さって、自分に正直であるということだと思う。

例に挙げると、私がこういう男は嫌だとはっきり言うことでもある。

高学歴、高収入、高身長だからと云って好きにはならないよとちゃんと言えることでもあるのではないか?

そんなものを求めている女なんてクズだ、とまで言ってしまえる。

別に人が何を求めようが関係ないけど、ロックではないよね。

 

 

実は、母さんとこんな話をした。

私は神というものは、自分の良心に他ならないと思っている。

どこかでずっと見ている大いなる存在ではないと。

つまり私は無神論者。

神は私の良心なので、心の中にいるだけのものである。

ということは、私が今こうして埼玉県に住んでいることは神の仕業ではなく、私の意志であるということだ。

ただ、ユーミンの『やさしさに包まれたら』にあるように、小さい頃は神様がいて不思議に夢を叶えてくれた。

それは心が汚れていなかったということだ。

自分の中にある良心に従って、親からの教えと共に生きていたってこと。

私は沖縄と北海道の先祖を持ち、差別のないこと、万人に優しいことを教わって生きてきた。

私の親は所謂毒親だったけど、そういうことは祖父母を見て学んだつもりである。

人を差別するようなことは決していけない。

そして、優しい心を持つことである。

それらのことを母さんに言ったら、蓮はそのままでいて欲しいと言われた。

これからも自分を信じ、自分と先祖の教えを大切に、真っ直ぐに迷わず生きていて欲しいと。

それこそが最大の親孝行であると言っていた。

だから私はこんな話をした。

 

「エリックサティは教祖は自分で信者は自分だけなんだって」

 

母さんはそれは正しいと言っていた。

そもそも、私は沖縄に魂があるのだが、沖縄の人は無神論者が多い。

百歩譲ってあるとすれば、琉球の神である。

それは噛み砕いて言えば、青い海と輝く太陽のことである。

大いなる何者かではないのである。

このことについては、いつか話をしなければならないと思っていた。

しかし、たまたまここに書くネタに困っていた時に、母さんとの話を思い出したので書かせて頂いている。

神とは自分の良心である、心の中にあるものだということはかなり前から思っていることだ。

『破壊から再生へ』にも似たようなことが書いてある。

何が言いたいかって、だからこそ自分の胸に手を置いて善悪の判断をすることが大切であるということだ。

その時必要なのは、傷つく心である。

自分の心が傷つく時、自分の良心は傷んでいるはずだ。

自分がされて嫌なことは、人にしなければいいのではないだろうか。

この手の話をしたら長くなってしまうが、自分さえしっかりしていれば無神論者でもブレたりしないということが言いたい。

神について勉強した時期もあったが、どう考えても私の神は私の良心だ。

そう思った時、このまま生きて行けば大丈夫だという自信も芽生えた。

自分にさえ正直ならば、良心を守れるとね。