久々に天気が良く、駅前の中華料理屋でラーメンと半チャーハンのセットを食べたら死ぬほど腹がいっぱいで、ビールを飲まなくて良かったと思った。
それなのに、帰ってきてから寿司を食べてしまった。
何やってんだか。
諸々と忙しかったので、パソコンに向かう時間がなく、もう日付が変わろうとしている。
急いで書くが、翌日朝早いので、さっさと寝てしまいたいのだが。
今日は短めで行こう。
あと二十分で書き終えたいのである。
今日は個人主義について語りたかったのだあが、どこまで語れるだろうか。
私はあくまでも個人主義なので、大袈裟な話には着いて行けない。
たまに利己主義と個人主義を混同する人がいるが、全くの別物である。
『ロックンローラー』を読んでくれた人はわかると思うのだが、私は極めて個人主義。
群れず、属さず、媚びずということだ。
なぜ、私が昔から村上龍が好きかと言うと、個人主義の人間を応援しているからだ。
一見すると快楽主義のニヒリストみたいだが、違う。
あくまでも個人主義の応援者である。
それを想った時に、私がやっていることは社会性を求められていることであると感じたのだ。
だから、辞めてしまおうと思った。
個人主義の私には向いていないと思った。
個人主義の人間は組織を必要としていない。
手取り足取りやってもらっているうちは、独立自尊でもない。
まぁ、私がたった一人でできることなど限られているが、かといって今までの活動は続けられるような気もした。
金を払って手助けしてもらうことに疑問を感じ始めたのも事実。
学びに金を払うのも身分不相応である。
そこまで私には生活の余裕がない。
そもそも私に学びなんてものが必要なのかと考えた。
浅川マキやミッシェルガンエレファントを聴くことは必要だが、哲学や宗教や政治を学ぶことは私の文学には精通しない。
それが答えだ。
『夜が明けたら』って云う浅川マキの曲を聴いていると、やはり私は組織には向いていないことがわかる。
ラーメン食べて、ビール飲んで、煙草吸って、ロックやっていることが作品創りに通じるということだ。
愛を感じて、愛を語る。
それは組織の中で社会性を重んじ、協調性を学ぶことではない。
例えば私が愛犬に愛を感じていたことや、元旦那への情などを育てることが直接作品創りに繋がる。
個人主義の代表として生きている姿を見せることが、共感を得るのではないか。
ぶっちゃけ、私が組織に属しては個人主義の人々が浮かばれないということだ。
決して社会不適合者になるのではない。
あくまで個人主義だ。
そんな私の姿が、ある一定の人々を救うのではないだろうか。
そう信じて止まない。
朝早く、二度寝している暇もないので今日はこの辺でやめておく。
しかし、やっと見えてきた。
たまには頑固な私も、周囲の意見に耳を貸して、目を覚ませって話。
私に必要なのは、学びよりも誰かと特別な時間を過ごすことかも知れない。
そっちの方が、感性が磨かれると思うのは私だけだろうか。