市役所から帰ってきて、浅川マキのライブを聴きながら戴き物のワインを少々飲んでいる。
椅子から転落して怪我をした直後は、肋骨が痛すぎて酒が飲めなかった。
それが最近ちょくちょく飲む機会もあって、再び家でもチビチビとやるようになった。
疲れているとどうも軽く飲みたくなってしまう。
張り詰めた神経が緩和されると思っているのは私だけだろうか。
ワインと浅川マキのコラボは、一人時間における贅沢の極みである。
散らかった部屋が居心地の良い空間に変わるのは、このコラボのお陰と言ってもいいだろう。
それにしても疲れたなぁ~。
結局離職票がないと国民健康保険に加入できないと言われ、そのまま帰ってきた。
また行かなきゃいけないということだ。
やれやれだ。
先日友達と興味深い話をした。
彼女は、子供の頃に読書感想文を書いたのだそうだ。
それに対し、先生が手を加えたとのこと。
そのせいで、自分の作品だとは思えなくなってしまったらしい。
「だから、蓮さんが誰の手も借りたくないっていう理由がわかるよ」
そうでしょう、そうでしょう。
これって物を作ったり、表現したりしている人には共通する話だと思う。
ここ!この部分は私の表現じゃない!
そういうことを思ってしまうのだ。
それは私の自我が強く、誰の言うことも聴かないのとはわけが違う。
やはり自分の作品はどこまで行っても愛着というものがあるわけで。
仮に駄作だろうが未熟だろうが、自分の作品であって欲しいと願うのは当然だ。
当たり前のことを補足するが、発表してしまえばもうそれは読者のもの。
読者に手渡すまでの過程が大切なのだ。
だから、新作は発表するまで誰にも見られたくないかも知れない。
現に、校正の目で全体をチェックできる人もいない。
仮にいたとしても、その人は楽しみに待っている一人の読者なのだ。
じゃあ誰からのアドバイスも要らないのか?という話になる。
結論から話すと、要らない。
発表前に原稿を見せられるだけの信頼に値した人が周りにいないのだ。
その人が謙虚であるとか、実力を持っているとか、そんなことはどうでもいい。
先にも書いたが、いたとしてもその人は楽しみに待っている読者。
最大の楽しみを奪うことは罪である。
だったら、最初から最後まで一人でやればいいのだ。
それしかないよね。
この件に関しては、私が我が儘であるとかそういうことじゃない。
なんとなくわかるでしょ?
作者の大切なプライド、誇り、こだわり、意思である。
曲げられない信念だ。
結果はどうあれ一人でやった方が私のためだと思うのは、経験から生まれる考えだ。
蓮さんあのね、世の中というものはそういうものじゃないんだよ!
そう言われても、私は曲げない。
やだね、発表までは誰にも見せたくないね。
中には人の手が加わっていない作品なんて、という人もいるだろう。
そういう捻くれた人は読まなければいい。
そうか、やはり信頼できる人がいないか。
それを思うと少し寂しくもなる。
でも私が読者だったら、蓮さん何にも間違っていないよと言う。
だって何よりも読者の楽しみを奪ってはならないと考えているのだから。
それについて、私ならむしろ期待を抱いてしまう。
自我が強くて、自分のテリトリーに足を踏み入れるなと言っているのではない。
先ほども書いたが、作者のこだわりでありプライドである。
たまにいるよね、どこからその自信が湧いてくるのかわからないが、やたら我流にこだわる人が。
そういう人は放っておかれる。
応援してもらえるのと相手にされなくなるかでは大きな違いだ。
私などは、弱さを隠すための強気な発言だと多くの人が知っている。
蓮さんは自我が強すぎる、などと言う人はあまりいない。
もしいたら、その人は私の文章をちゃんと読んでいないのさ。