nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

神は見ていない

今週一杯で終わると云うのに、めちゃくちゃ仕事頑張ってバタクソに疲れて直帰した。

コンビニに寄って食べたいものがなければ、隣の立ち飲み屋へ寄って小松菜キムチを食べる気満々だった。

ところがコンビニにもキムチが売っていて、サバの味噌煮と納豆巻きを買って無事帰宅。

ハイボールと共に完食し、パソコンに向かっている。

普段なら『濃いめ』を飲むのに、疲れすぎているので普通の角ハイボールにした。

こんなに疲れるほど情熱を注いで仕事に取り組んでいるのに、神は何を見ているんだか。

いや、地球は私を中心に回っているわけではないので、きっと神は私のことなど見ていないのだろう。

それはそれで酷い話だけどね。

神だってとんでもない人口を抱えているのだから、一人の人間の隅から隅までなんて構ってられないよな。

神は見ていなくとも、誰か一人くらい見てくれていてもいいのに。

 

 

ま、世の中そんなに甘くはないし、この世は広いのだ。

埋もれてはならぬを合言葉になんとか頑張って生きている私である。

自分で言っちゃうけど、苦労人の割にひねくれていない私は、ここまで来ても仲間を信じている。

私ども契約獲得マシーンがいなくなったら寂しくなるだろうよ。

この職場を撤退しても、同じ会社の人達は同じ現場に飛ばされるのか?

だとしたら、一人じゃないからまだ心強いかも。

仮に一人だったとしても、私ならやってのけられる自信はある。

それとも、事実を知らないのは私だけ?

実は騙されていたりして。

都会が恐ろしいのか、私が馬鹿なのか?

未だに職場の人達がうちの会社の撤退の話を知らないなんて不自然である。

疑いたくもなるよな。

未だに気づかない私がやっぱり馬鹿なのかも知れないが、神だって寝る暇あるなら私を見ろよ。

 

 

私の母さんは、私を芸術家にしたかったようだ。

何故なら私が子供の頃から変わり者だったからだ。

手に負えなかったらしい。

だから、この子は普通の大人にはなれないと思ったそうだ。

しかし、育て方がわからなくなり、放棄したようだ。

つまり、個性は尊重されることなく見放されることとなったのだ。

それにまつわるとてつもない寂しさについては、今までも語ってきた。

親に見放された私は途方に暮れ、路頭に迷い、一時は悪の道へ。

ところが神は見てくれていたのだ。

救われたと思うことが何度かあった。

ただ、私の中の記憶ではどん底まで落ちないと救いの手は来なかった。

どういうことかというと、今はどん底ではないので救いの手は来ないだろうということ。

かといって、自分を良からぬ方向へと導いてはならぬ。

いっそのこと神に救われなくたって、自分で自分を救えればいいのだ。

 

 

疎遠だった親子が十年振りに再会を果たした時、芸術家になっていない私を見て母さんは落胆したようだ。

その時私は主婦だった。

家事もろくにできないどうしようもない女だった。

辛うじて、自費出版で本を書いたりしていた。

しかし、母さんはそんな私を認めることはなかった。

子供に対して期待値がでかい母さんは、仮に私が幸せな結婚をしても不満なのだろう。

たまに母さんは私のことを『失敗作』と言う。

全く悪気はないにせよ、私が傷つくということはわからないようだ。

神はどうだ?

私は『失敗作』なのだろうか?

最近神に見放されたような寂しさを抱くようになり、私を見放した母さんのことをたまたま思い出してしまった。

本来深い愛情で以て包んでくれる親や神に見放されても、めげないのは何故か。

結局のところ、自己信頼以外の何ものでもない。

私が私自身を腹の底から信じることは、世の中が歪んで見えない要因なのだ。

自分の胸に手を当てた時の『良心』こそが神であって、天から見てくれているものではないのだと思う。