nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

土壇場の強さ

休みの日に買った鶏肉があったので、空腹に耐えながら直帰した。

食べ終わったらさっさとパソコンに向かえば良かったのだが、ぼんやりとハリーの『十字路に立って』を聴いていた。

何故か今の私には沁みる曲なのだ。

そんな私も十字路に立たされているような気がする。

それでもジタバタしていない。

むしろ、私がやるべきことは終わったと思っている。

残されているのは、とにかく真面目に働き、最終日まで契約を取り続けることだ。

一つ成長したと思うのは、池袋から埼玉県の谷塚までどこへも寄らずに帰ってこれるようになったことだ。

そして休みの日にはスーパーへ行って買い溜めするようになった。

当たり前のことができるようになったということは、精神が安定している証拠。

何故、色々と不運続きなのに安定しているのかというと、悔いがないからだ。

冷静になって考えてみれば、やるだけのことはやった。

何に於いてもそうだ。

いるはずもない神という存在を信じ、天と会話した気になって、ありとあらゆる手を尽くした。

それは賄賂を渡したり、上司と枕関係になるといったことではない。

何度も言って恐縮だが、己の良心に従って、全力投球をしたという自負がある。

見放したいなら、見放せばいい。

裏切りたいなら裏切ればいい。

いやいや、全ては貴女のせいなんだよと言われても構わない。

 

 

しんどい心と身体を引き摺って、倒れる寸前までやった。

ここから先は、今度こそ流れに身を任せようと思った。

職場でも全力の努力に加え、きっちり自己主張してきた。

もういいだろう。

運任せではない。

ここから先は私が突き付けた答えについて、考えて結論を出すのは周りだろう。

私はやるだけやったので、もう心配していない。

職場が出した答えが、そっくりそのまま私に対する世の中のアンサーだと受け入れる覚悟だ。

安定感のあるものは、安定感を呼ぶらしい。

私が整っていれば、周りも整うそうだ。

土壇場に強いのは、今に始まった話ではない。

もしかしたら、最後の最後に私の取り合いになるかも知れない。

私は涼しい顔でそれを見届け、出す答えは腹の中にしまい込んで、堂々としていればいい。

 

 

不思議なもので、心が整うと、一人でいることなどにメソメソすることはない。

だが、私も強がっているようで正直な一面もあるから、弱っている時はそのままを晒すようにしている。

もうそんなことは皆わかってくれていることだし、今更隠す方が不自然である。

寂しい時は寂しいと言い、悲しい時は悲しいと言うのが基本。

かといって、ある日突然吹っ切れる。

ひょんなことからどん底まで落ちるとケロっとする。

一旦強気になると、無敵になるから恐ろしい。

すがるように頼っていた神のことすら不要になる。

人間と同様、私を構ってくれない者のことは簡単に不要になる。

最近書いているように、神の大いなる愛を感じなくなってしまった私はもはや自分しか信じるものはない。

上がったり下がったりジェットコースターのような半生の私は、誰も恨まずがモットー。

その代わり自分をも恨むことはない。

だからと言って嫌いな人はいるし、決して仏じゃない。

人を嫌うのも労力がいるし、とても疲れるので、消えたことにするのがベスト。

そうすれば恨まなくて済んでいるだけの話。

別にいい人なんかじゃないよ。

 

 

せめて自分だけは自分を頼りに生きて行かないと。

長生きしたいわけではないが、好きな人でもできれば地球がひっくり返ったように人生観も変わるのだろうよ。

土壇場まで来ると腹が据わるのは、それなりの経験に基づいてのこと。

多少は苦労みたいなことをしてきて良かったかも知れないと思えるのはこういう時。

誰に頼むわけでもない、話を聞いてもらいたいわけでもない。

書くだけで十分なのだ。