nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

私のガキ臭さとは

いい感じで光が差し込んできているようだ。

闇の中が長かったから、余計にそう思うのかも知れない。

長い間、私のことを見てきた人は如何に私がもがき苦しんでいたかを知っている。

ところが今年に入って運の流れが一変した。

離婚や引越し、本の発売を経て、上向きになったと思っている。

来年以降は、もっともっと上がるぞ。

抜本的な大革命を起こし環境を変えたことによって、ストレスも軽減され、心も穏やかになってきた。

 

 

ところで私は歳の割には中身がガキ臭いので、年下でも年上に感じたりすることがある図々しい女だ。

年下の彼ら彼女らに対して、「歳の差を感じない」と言うことは、失礼にあたるかも知れない。

しかし、事実、私より落ち着きを放っているのはなぜだろうか。

もしかしたら私などは中身だけは永遠の二十歳が通用するのではないかと思うこともある。

とはいえ、空気は読めるし、話を合わせることも苦手ではないのだが。

こういうのを年齢不詳と呼ぶのだろうか。

だとしたら、私の周りは良くも悪くも年齢不詳な人で溢れている。

圧倒的に若く見える人もいれば、実年齢より遥かに落ち着いている人もいる。

学生時代は学校内だけでしか人間関係を作れなかったことに対して、物凄く窮屈さを感じていた。

早く大人になって、自分と相性のいい人を見つけたいと思っていた。

ところがそれは一筋縄では行かなかった。

私の場合、友達と呼べる人に出会うまで大苦戦してしまった。

自我が強い上、頑固だし、唯我独尊なところがあるのでかなり浮いた存在だった。

現在四十二歳の私だが、上は七十代、下は二十代との交友関係がある。

しかし、これだけ年齢が離れていれば馬も合うのだなと思うことも多々。

聴いている音楽や好きな作家の話でも盛り上がれるとなると、いよいよ生きていて良かったと思えるのだ。

そう考えると、学生時代なんてものはクソだったなと言える。

学校も組織のようなもの。

群れから外れたことで、こんなにも伸び伸びと生きていられるなんて思ってもみなかった。

結婚も向かなかった。

とにかく何かに属することがなければ、私は自由でいられると思っている。

その自由の代償として、貧困を受け入れるというわけだ。

ところが、自分の意識一つでもっと高く飛べるということを先ほど学んだ。

私がいつも言っているように、思考は現実化するということだ。

自分はこうなる、こうなれる、このように進むと決めてしまうことが大切なのだと。

健康面についても指摘されることではあるが、私のことだから倒れなきゃ直さないだろう。

だってチバユウスケだって煙草吸って酒飲んでいるじゃん!みたいなね。

チバさんが倒れたら私も改善するかも知れないけれど、それまではチバさんについて行く気満々である。

まぁ、私ごときのことを助けてくれる人などいないのだが。

 

 

何が言いたいか支離滅裂になってきた。

何が言いたいかって、私が年齢よりガキ臭いってことだ。

だからこそ色んな年代の人々とお付き合いができるのかも知れない。

心はピュアでいてなんぼ。

汚れてなくてなんぼ。

愛する人々と輪を広げたいのか、自分の自由な時間が欲しいのか。

私は紛れもなく輪を広げたいタイプ。

っていうことはコミュニケーション能力が求められるということなのだ。

意見の食い違いがあったら、意見の違いは相手と交渉することが大切。

ただ、それって案外難しい。

我慢することは簡単だけれども、交渉事には弱い人が大勢いるのではないだろうか。

だから私は離婚に至ったのかも知れないし、人間関係も上手く行かなかったのかも知れない。

私のガキ臭さいとは思っているけれど、その辺のコミュニケーションは取れているということは、それなのに大人なのかも知れないな。