nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

嫌われる勇気

解り易く言うならば、人生は「天」との対話。

天が望む通りに生きていれば、自ずと道は開けるような気がしている。

何度も同じことを言って恐縮なのだが、一度家庭運などは隅にやり、天命に従って突っ走る方がいいような気がしている。

若いと言われるうちは、ある程度遠くを目指した方が生き生きと生きられるのではないだろうか。

これはあくまでも私の場合である。

突き詰めて考えて行くと、仕事以外何も求めてはならないように感じる時もある。

寂しさは封印して、そのような感情を抱かないように自分を追い込んでみる。

そこまでしても高く飛び越えられなかったら、またその時考えればいい。

私にはそうすることが、イコール希望に繋がっているような気がしてならない。

私にとっての希望とは、やはり作品が羽ばたくことである。

ロックンローラー』はそんな可能性を秘めていると感じ、新人賞に応募した。

『破壊から再生へ』はどうしても世界中の人に読んでもらいたくて現在翻訳中である。

 

 

もっと分かり易く言うならば、自分の中の可能性を最大限に開花させるためにはある程度捨てなければならないものもあるということだ。

自立のために運命の人を捨てると誤解している人がいたが、まるで違う。

私にとっての運命の人とは、私が追い求める夢や希望について、自分のことのように祈ってくれる人だ。

だからそんな人が現れたら、捨てるはずなんてないのである。

ただ、私は一人の男のために自分の夢や希望を捨てることはしない。

俺のために夢や希望を捨てろという人は、私にとっては運命の人ではないだけの話。

 

 

もしかしたら四十代というのは良くも悪くも焦りが出てくる年代なのかも知れない。

ぶっちゃけ、私はこの歳になるまで何一つ成し遂げていない。

ただの無名な物書きであって、認められた経験すらない。

もがいてもがいてもがき苦しみ、未だに陽の目を浴びることができない人間だ。

ずっとずっとパートナーを求めていたけれども、それすら叶わなかった。

つまり、偉そうに生きているものの、何も持たない人間なのだ。

私の中では、そろそろ報われてもいいだろうという気持ちがある。

このまま終わるなんて有り得ないと思っている。

 

 

だけどね、私はちょっと疲れたのかも知れない。

心の支えがない私は、ちょっとしたことで精神不安定になり易く、張り詰めていたものがガタガタと崩れ落ちたりする。

なんとなくセンチメンタルになって、友達と一緒だったのもあってスマホをほとんど見なかった。

もっと具体的に言うならば、なんとなく家に家族やペットの安らぎがある人が羨ましく想ったりした。

私の場合は、たった一人で気を張っているだけ。

このために頑張るというのは、自分以外に何もないのだ。

そのことについて、やはりセンチメンタルな状況に置かれては、心細く感じたのである。

消えたい…。

なんて気持ちが浮かんでは消え、浮かんでは消えた。

私は一体何様なんだ?

何者でもない私が、自意識過剰になっているだけだ。

そんなことはわかっているのだが、発言を繰り返していると、意気消沈してしまうものだと痛感した。

先日元気よくライブ配信をしたばかり。

それなのにどうしてだろう。

出した結論としては、このままこの生活を乗り切って、来年に持ち越して、運命を変えるのだということだ。

人生のパートナーが現れるまで、それでもいい。

叫び続ければいい。

だけど支えのない私は、自分だけを支えにしていたけれども、限界があることに気づいた。

人の目を気にしすぎる末路である。

なんだか総スカン喰らっているような敗北感。

無視されていると感じる自意識過剰。

あぁ、嫌だ嫌だ。

 

 

こうして私はたまに落ちる。

誰から何も言われていないのに、ドスンと落ちて、極端な行動に出る。

角度を変えれば皆が仲間で、温かい眼差しを送ってくれているとわかっているのにね。

嫌われる勇気はあるようでないのかも。