nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

魂の怒り

何に共感するって、人間の魂の怒りが好きだ。

お涙頂戴の涙ではなく、泥臭い苦い涙が好きだ。

フラれた涙ではなく、敗北の涙。

だから一般受けする音楽より、一部の人間にしかわからないようなマニア向けの音楽に魂を持って行かれる。

 

 

私くらいになると、自由人過ぎて、誰とも上手く行かずに悔し涙を堪えることもある。

ところが、ケロっと開き直って孤独を謳歌している自分もいる。

だって私は自由人なんだよと。

仕方ないじゃん、こればっかりはどうすることもできない問題なんだ。

もしかしたらこれから先生きていても、この人という人に巡り会えないかも知れない。

基本的に、私は人間と人間の間には距離が大事だと思っている。

私に対する想いが強ければ強いほど上手く行かなくなる。

何故なら、私を変えようとするからだ。

解り易く言えば、私は人の力も借りないし、指図も受けない。

好き勝手やってくたばってもいいと腹を括っているからだ。

 

 

多くの人から蓮さんには幸せになって欲しいと言われる。

しかし、私にとっての幸せと、傍から見る幸せには相違があるような気がしてならない。

私はぶっちゃけ、不幸でいいのだ。

報われる日が来てもいいと思っているだけだ。

運命の人に出会いたいとは口先だけで、とっくに諦めている節もある。

出会った瞬間は素晴らしいものかも知れない。

ところが、私が私じゃなくなることを最も恐れているため、埋もれるくらいなら不幸な方がマシだとさえ思ってしまう。

もうね、理解されたいとも思わなくなってきた。

私って云う人間は、多くの人が想像している以上に悲観的で僻みっぽく生きている。

陰と陽で言えば、陰を生きるネアカな生き物なのだ。

根が明るいため、苦労を苦労ともせずやってのけているだけだ。

僻みっぽいとは、人を羨んでいるのではない。

私が抱えているものなど誰にも理解されるわけがないと諦観しているだけだ。

 

 

頭の中お花畑の人に言いたいが、人生のゴールは『死』である。

幸福がゴールではない。

幸せになりたいヤツは、勝手に幸せに生きればいいのだ。

皆で手を取り合って幸せになりましょうみたいな人がいたら、私は真っ先に逃げる。

私は人に手助けすることはあっても、基本的に自分のことしか考えていない。

人に悩みを打ち明けることはあっても、相談じゃない。

もっと言うならば、私は自分にまつわることをよほどじゃない限り人に委ねたりしない。

私を助けてと叫ぶことは、これから先もあり得ない。

ただ、文章で現状を報告するだけだ。

何故なら、絶体絶命になればそれはチャンス到来だからだ。

神の啓示を受けて、ステージが変わる時でもある。

あの時だって、この時だって、一人でなんとか乗り越えた。

もう、それ以上に困難なこともないと達観している。

扉を開けるのは自分、扉の前に立てるようになるには困難なことウェルカムだ。

 

 

蓮さんは自我が強いせいで不幸の連続とか抜かす人もいる。

ところが中には私の文章を読んで、こんなに幸せな人を見たことがないと言う人もいる。

私にとっては、幸も不幸もない。

いつかはくたばるのみである。

だからといって手を抜いて生きたりしない。

希望なんて要らない。

必要なのは負けず嫌い精神でもない。

どれだけ苦い涙を呑んできたかに依るのだと思っている。

幸せに現を抜かすのではなく、こんだけやればもういいだろって幕を閉じるのが私らしいと思わないか?

もうね、ここまで来ると何も要らないのさ。

苦い涙を文字にして、働いて寝るだけ。

いつか来るであろう神の啓示を待つ。

好奇心だけは持っている。

だからといってそれは夢でもない。

一応やるべきことだけやり終えたいという義務感でしかない。

男でもできたら普通の人になってしまいそうで怖い。

一人でいた方が光るってそういうことかな?