話したいことがあるけれど、タイミングを見計らって話をしようと躊躇うことが多々ある。
例えば給料の話がしたくても、直接上司には言えない『時期』というのがある。
成績が伸び悩んでいる時に、時給を上げてくれとは言えない。
誰かが私に熱を上げている時に、嫌いだとは言えないみたいな。
最近、タイミングについてよくよく考えている。
何となく、今まで信じられていたことがわからなくなってきた。
それは残念ながら、人間に対してかも知れない。
私には人間不信に陥ってもいいタイミングが腐るほどあった。
それでも何故か神は私にピュアな心を授けた。
だから、人間っていうものを不審に思いながらも、恐る恐るだが人間を信じてきた。
しかし、もう人間なんて真っ平御免だと思うこともある。
知りもしないくせに知ったかぶりをされたり、上から目線で来られたり、侮辱されたり、トンチンカンなことを言われたり。
それでも心の中で、人間を信じているのには訳がある。
この世には、賢くていい人がいるからだ。
聡明で、私との距離を上手く保ち、平等でいてくれる人だ。
彼ら彼女らにとっては、年齢や立場など関係ないのである。
恐らく、誰とでも居心地の良い関係を築くことができているはずだ。
ところが、そういう人に限って、誰よりも人間関係に苦しんでいる。
私からすると、聡明な人でさえ苦しむということが最大の励みだったりする。
私だって苦しんだっていいんだとね。
友とは何かについてわからず彷徨っているのに、パートナーを得ようとするのは十年早いような気もする。
友達なんているようでいない、いないようでいるというのが正直なところかも知れない。
どうせ私なんて一人とか思った矢先に温かいコメントに涙したりすることもある。
私は強すぎる個性のせいだとは思うが、基本的にどこへ行ってもいつまで経っても一匹狼である。
そんな私のことを支持してくれる人も沢山いるのだが、彼ら彼女らが隣の席に座る同僚に感じることもあれば、オーディエンスに感じることもある。
職場でも、皆が仲間に感じるかと思いきや、そう思っている私が痛い人間だとハッと我に返ることもある。
傷つき易いと言えばそれまでなのだ。
私がもっと図太かったら、アンダーグラウンドを徘徊するハードボイルドキャラで生きられるのかも知れない。
ところが、良くも悪くも老若男女から愛されハードボイルドにはなれなかった。
実に中途半端な存在なのである。
何やってもダメだった私だが、こう見えて大衆相手はそこそこ人気があった。
といっても地元に根付いた魚屋やドコモショップだ。
そんな経験があるからこそ、ついつい私の文章は大衆に受け入れられるのではないかという『錯覚』に陥るのである。
サングラスかけては生きられない。
どんなにシミだらけでも厚化粧にもなれない。
偽りたくない、隠したくない、ありのままで体当たりしたいという気持ちが強い。
その結果総スカン喰らっても仕方がないと腹は括っているのだが、孤独を受け入れられる器が足りないようだ。
何故、こんなものが流行るのだろうと世の中を疑うことは常。
しかし、どうせ一回しか死ねないのだから、俺らは間違っていなかったと思ってから死にたい。
それがまだまだ先にしかないと思うからしぶとく生きているけれども、一回しか死ねないのだ。
とかく生きることばかりフォーカスされがちだが、生きるとは半ば惰性である。
目がキラキラするような瞬間を味わった時、私なら死んでもいいと思うだろう。
手術が成功した瞬間ビルから飛び降りたくなって、ネオンを眺めていたように。
終わるから祭りなのであって、それまでの『生』とはそれほど美しくないのかも知れない。
そう思えば無意味な日常もやり過ごせるような気がする。