nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

意識と責任

荻窪まで用事があって、仕事帰りに行ってきた。

まだ九月とは思えないほど寒かったのは、恐らく台風の影響ではないだろうか?

Tシャツの上にトレーナーを着ていたけれど、それでも寒かった。

職場の近くのバス停から赤羽駅行きのバスに飛び乗り、なんとか一時間で到着。

その辺の焼鳥屋で生ビール一杯引っ掛けて、ささみ串を二本食べて現地へ向かった。

実は、友人からピアノコンサートに招待してもらったのだ。

仕事終わりに遊びに行くのはちょっとハードだったのだが、堪能することができた。

約二時間半に及ぶ演奏にはとても迫力があって、見応えもあった。

コンサートが終わったらどんなに早く帰っても二十三時になると思ったので、どこにも寄らずに帰宅した。

なんとかして日付が変わる前にこれを書き終えたい想いで、パソコンに向かっている。

それにしても、流石中央線沿線の街だ。

ささみ串が久々に美味かった。

焼鳥は安けりゃいいというものではないと、痛感した。

この店が近所だったら、私は常連になっていただろう。

ただ、荻窪は遠い。

もう行く機会はないかも知れないし、あったとしても場所を覚えていない。

店の名前も確認しなかった。

帰りの電車では、スマホの充電もあまりなかったのでほとんど寝ていた。

無理ができない身体になっているのかも知れない。

目の下のクマと背中とふくらはぎの痛みが物語っているように思う。

さぁ、サクサク書いてしまおう。

 

 

そうそう、たまに私が落ち込んでいる時に書くものは、ある意味自己分析である。

泣き泣きになって愚痴っているわけではない。

無論、愚痴るような出来事もない。

至って平和に暮らしているのだが、ふと立ち止まってしまう時がある。

でもそれって必要じゃね?

自分のことを見失うほど突っ走るのは危険。

あれ?と思ったら、立ち止まって「検証」することが大切だと思う。

それは人目を気にするというのとも違うような気がしてならない。

一応人前に晒しているものなので、読んだ人の立場に立って考えることもあるわけだ。

つまり、それなりの責任感を持っているということ。

自意識過剰?

いやいや、人様に読んでもらうということはそういうことだろ。

プロとかアマとか関係ないのだ。

音楽だって、聴いてもらうことを念頭に置いているはず。

それは自分を貫かず、流行りに身を任せるのではない。

自己満足ではあるのだが、自己満足だけでは終わらない。

だから、そこには「発信者」としての責任が生ずるって話。

自分が言ったこと、書いたことには責任を持つ。

私の考えはそうだ。

あくまでも「ここ」は人前であるという意識を掲げているし、楽しみに待ってくれている人がいる。

好き勝手書いているものの、頭の片隅ではちゃんと自覚している。

先にも述べたように、プロだろうがアマだろうが、そういうことは関係ない。

もっと言うならば、それを言い訳にする人は絶対にプロフェッショナルにはなれない。

それはあくまでも私の考えではあるが。

 

 

だから、感触が悪かったりすると反省してしまう。

今日の投稿は単なる自己満の落書きだったのだとね。

逆に一体感が生まれた時は、最高の気分だ。

それはいちいち反応を気にしているとかそういうものじゃない。

ミュージシャンだって、客席が盛り上がっていれば自分もノレるだろう。

とはいえ、私も皆さんのフォロワーだ。

投稿を見る時そんな厳しい眼差しでは見ない。

だけど、私は仮にも本を販売させてもらっている以上、厳しい眼差しで見られているんだと言い聞かせている。

どうしても書けない日はあるけれど、千五百文字にこだわるのはそういうところ。

自費出版ライブ配信も誰でもできることかも知れないけど、その理屈に逃げてはならぬ。

何故なら、言うまでもなく、私はいつかプロフェッショナルになりたいと思って生きているからだ。

きっといつかなれると信じている一人だからだ。