nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

人から疑われた時

信じやすく騙されやすい。

けれども、それはポジティブな証拠であって、何も考えていないわけではない。

例えば、屈託のない笑みを浮かべられると、疑うことが失礼なように感じてしまう。

こちらのちっちゃな警戒心でアナタの笑みを疑ってゴメンなさいとなるわけだ。

だまされたと気づく時は、その人の笑みが歪んだ時。

え?こんなにおっかない顔するの?みたいな。

勿論声のトーンも下がっているわけで。

こちらが疑いの心を捨て、心を開いているのをいいことに「素」の姿を出してきた時、物事は終わりを迎えるのだ。

 

 

こんなことがあった。

私は親しき仲の人から疑われたことがある。

それはそれは衝撃的なことだった。

この期に及んで私を疑う?

呆れかえった。

でも冷静に考えれば、大したことがなかった。

この人は私のことを知り尽くしていると思っているのかも知れないが、何もわかっちゃいなかった。

と云うより、私のことはさておき、世間の縮図を知らないのだろう。

それでも先頭切って生きていると思っているのだから、憐れな話。

私はだてに歳ばかり食っているのではない。

学がないとか、ブルーカラーしかやったことがないとか、色々とナメられてはいる。

しかし、世間の人々が知らない世界を若い頃から見てきた自負はある。

 

 

私のことを疑う人は、そもそも私の人間性を信じていない。

反対意見ばかり耳につくようだ。

そのくせ、そういう人は私のことを「改めて」こう言う。

 

「信じている」とね。

 

カッーーーー!

胡散臭くね?

信じているというのは、微塵も疑いの余地がない様を言う。

信じてくれている人っていうのは、疑惑があってもこう言うのだ。

 

「いやいや、蓮さんはただ真面目に生きているだけなんですよ」

 

もしくは大笑いする。

 

「そいつ等、蓮さんのことを何もわかっていないねぇ」

 

微妙なニュアンスで申し訳ないが、信じることは努力を要するものではない。

一生懸命信じるとか、おかしいと思わないか?

例えば、こういうのがある。

 

「ウチの人に限って、そんなことするはずがありません!」

 

身内は最後まで「その人」を信じて止まないものだ。

なぜならその人の良いところを沢山知っているからだ。

再犯率が多いのは、身内から見捨てられた人。

「ウチの人に限って...」の信頼が得られなかった人だ。

よく言うのが、上に立つ者は下に従える人全員を信じられるのか?みたいな話。

私個人的には、それは不可能だと思っている。

上に立つ者も大した器ではないし、下にいる人だって上を信じていない。

そこには利害関係が発生しているからだ。

 

 

信頼とは一瞬にして壊れるものだと最近悟ってしまった。

誰かが歌っていたよね。

誤解されたら張り裂けそうだと。

私は張り裂けそうにはならない代わりに、終わったなと思う。

何もかも、今まで積み重ねてきた全部が崩壊へと向かう。

いい子ちゃんになるためには、自分に嘘を付く必要がある。

それが私にはできない。

もうね、めちゃくちゃに八つ裂きにしてしまいたくなる。

そう、それだけ私は脆くできている。

いい子ちゃんになるメリットも感じられない。

嫌われてもいいから、自分の傷心を守ることに専念したい。

信じてくれている人とは、どんなに私がネガティブに陥ろうとも励ましてくれるもの。

私が体調悪くても、災難に遭おうとも、微笑みかけてくれるもの。

何故なら、彼ら彼女らにとって、私は疑いの余地もないからだ。

蓮さんには何の問題もない、みたいなことを私が黙っていても信じてくれている。

本当に信じてくれているのが誰か。

馬鹿な私でも、そのくらいわかる。

蓮さんはだませると思っている人がいるならば、いっそのこと、表へ出て来てみればいい。

きっと一筋縄では行かないから。

それが面倒臭くなるようなら、消えてくれればいい。